ポビェジョヴィツ Pobezovice

概要

ピルゼンから南西に約60km、ドイツとの故郷に近い、ボヘミア地方ののどかな風景の広がる小さな村。

ロンスペルク城

オーストリア帝国時代の貴族クーデンホフ一族の領地だった。
妻クーデンホフ光子も1896年から約10年間ここに居住していた。
貴族制度の崩壊で没収された後、ずっと放置されていた。
今は周辺のボランティアの人々の活動で修復・管理が行われている。
修復費用は寄付、出版物、記念グッズ販売などで賄われている。
内部は3部屋だけ修復されている。城の再建運動の発起人である日本人シュミット・村木眞寿美さんの貢献が非常に大きい。
ミュンヘン在住の村木さんは「クーデンホーフ光子の手記」の訳編集をして発行し、日本国内でも精力的講演活動などを行っている。
寄付には日本人が非常に多く、修復した部屋には、協力した日本人の名前を刻んだプレートが張り付けてある。
修復された部屋は、光子が気に入って長く住んでいたところである。
クーデンホフ家が居住する以前からあったフレスコ画の一部も再現されている。

光子・クーデンホーフ・カレルギー伯爵夫人

光子こと青山みつは1874年明治7年、東京牛込納戸町生まれ。
父の青山喜八は骨董商を営んでおり、その店は、オーストリア・ハンガリー公使館からほど近い場所にあった。
1892年(明治25年)、当時のオーストリア=ハンガリー帝国駐日代理大使、ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に見初められ、周囲の猛反対に遭いながら翌年結婚、18歳である。光子は1896年(明治29)に伯爵の故郷へと渡り、クーデンホーフ家の領地のひとつ、西ボヘミアで結婚生活を送る。
 しかし1906年に夫が46歳で心臓発作で急逝。遺産相続問題が起こるも、光子は子どもたちのために裁判で戦い権利を守る。その後ウィーンへ移り、伯爵家を取り仕切りながら7人の子どもを育て上げ、1941年(昭和16)に67歳で亡くなる。 

光子の次男、リヒャルト・ニクラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi 1894~1972)は、欧州統合運動のきっかけとなったパン・ヨーロッパ(Pan-Europe)思想を提唱したことで名高い。そのため、光子は「パン・ヨーロッパの母」とも称されることとなった。つまり、リヒャルトは、現在のEU設立の先駆者といえる。

城はガイドの案内で見学できる。
7・8月は予約不要だが、それ以外は事前に予約が必要になる。
http://www.zamekpobezovice.cz

  • クーデンホーフ光子についての詳しいサイトは こちらへ
クーデンホーフ光子に関する出版物は
シュミット村木眞寿美(訳編)『クーデンホーフ光子の手記』(河出書房新社 1998年、 ISBN:430922329X)

ホルショフスキー・ティーン城 Horsovsky Tyn

ポビェジョヴィツから南西に約15㎞にある。
クーデンホフ一家の所有になっていた城で、光子も家族と一緒にここをたびたび訪れていた。
現在、ここには、ミツコの遺品が展示されている。
家族が使用していた家具・調度品、光子の和装の写真、光子がロンスベルグ城で描いた油絵なども展示されている。
公開は4月~10月(月曜休み)
http://www.horsovsky-tyn.cz

















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