アンボワーズ城 Chateau d'Amboise



概要

ロワール川を見下ろす高台にそびえる城。
ロワール河畔のなかでも、特に風情のある町と城。
町は城下町だけあって、白い建物には上品な装飾を施されている。歴代のフランス王の名城は現在博物館として一般公開されている。
*1560年のアンボワーズ事件では新教徒の大量虐殺という歴史に残る出来事があった。
会議の間やアンリ2世の寝室などのほか、アンボワーズ事件で新教徒たちが大量虐殺された部屋なども見学できる。

アンボワーズ城はガリア・ローマ時代を起源とするが、もともと要塞として建てらた城だが、15世紀末シャルル5世によって優美な城へと姿を変えた。
現在見るアンボワーズ城を造り上げたのは二人の王、シャルル8世(在位1483-1498)とフランソワ1世(1515-1547)がイタリアに遠征した際に国内に取り入れたイタリア・ルネサンス様式の影響が色濃い建築。

城は高い城壁の上に建ち、居住の館は川を見下ろす位置にある。
正面は洗練されたお屋敷のような趣だが、裏側に回るといかにも厳つい感じ、見る場所によってさまざまな姿が楽しめるこの城にはミステリアスな場所がある。

謎の地下道

城壁に張り付くように建つ2つの塔。
15世紀、最初の城を増改築したシャルル8世が力を入れた場所である。
王は街から馬に乗ったまま高さ40mの駆け上がることが出来るように塔の中を改築した。階段ではなく、螺旋状のスロープにした。
2つの塔の一つ、ミニーム塔はシャルル8世専用の玄関であった。
馬に乗ったまま橋を渡り、塔の中の坂道を駆け上がって行ったのだった。このミニーム塔からは眺望が楽しめる。
天井にはゴシック様式のアーチを取り入れた。大聖堂のような荘厳さこそ、王の道にふさわしいというシャルル8世のこだわりだった。
塔の中心は吹き抜けになっていて明かりを取り入れる工夫がなされている。

一般見学者は入ることが出来ないが、塔の中を下りて行くと、塔の脇に小さな入口があり、中世時代の地下道になっている。この辺りはこの城の最も高い部分だが、最近5年前になって見つかっている礼拝堂だったようだ。
シャルル8世時代より200年も前のものである。
13世紀の礼拝堂に観られる図案である。
なぜこんなところに礼拝堂があるのかというと、当時使用人たちが王の部屋やテラスを通ることは出来なかったので地下を移動し、地下で仕事をしていた。
アンボワーズ城にはアリの巣のように地下道や地下室が無数にある。その数は300とも500とも言われ、今も調査中で、中庭の方まで続いている。
シャルル8世が最初に増改築を始めたのだが、当時ナポリを制圧したころで、王はイタリア芸術や文学に感動し、城をイタリア風に改築したいと考えた。

アンボワーズ城で初めてイタリアとフランスの芸術文化が混じり合ったのである。
シャルル8世が手始めにイタリアから持ち込んだのは庭である。イタリアで目にした美しい庭園、山や丘が多いイタリアでは斜面を利用した庭が造られた。なだらかな斜面を利用して造られているため、屋敷のどこから見ても眺めることが出来た。
「美しい眺めの庭」とよばれ、15世紀に流行した。
その庭は現存していないが、アンボワーズ城の斜面を利用して広大な庭が造られたという。それまでフランスにはない庭の楽しみ方である。しかし、シャルル8世は28歳という若さで亡くなってしまう。
次の王はルイ12世だったが(在位1498-1515)、ブロア城を居城としたため、アンボワーズ城にはほとんど手を入れず、シャルル8世の意志を受け継いだのはルイ12世の従妹の子フランソワ1世(在位1515-1547)。
フランソワ1世はシャルル8世が始めたイタリア戦争を継続し、1515年ミラノ公国を制圧する。その頃イタリアはルネッサンスの最盛期、 フランソワ1世はルネッサンスを積極的に取り入れていく。それによってフランス王家の生活スタイルにも変化が起きてくる。
城の展示物の中にはイタリアルネッサンス様式のものが多くみられる。
テーブルにもイタリアルネッサンス様式のものが見られる。
当時フランスでは食卓用テーブルはなかった。台の上に板をのせた簡素なもので食事をしていた。フォークもそれまではなかった。食べ物も地中海や南の方から色々な食材が集まり、フランス料理にも影響を与えることとなった。
シャルル8世とフランソワ1世が持ち込んだイタリアの文化はフランスに多大な影響を与えて行った。

サン・テュベール礼拝堂 Chapelle Saint Hubert

城のはずれに建つ。
王のために建てられたゴシック様式の建物。内部の装飾は優美な曲線で装飾されたフランボアイヤン様式。植物や生き物の装飾が多い。
ここにフランソワ1世のルネッサンスへの傾倒ぶりがうかがえる証がある。美しい礼拝堂に眠るある人物の墓。レオナルド・ダ・ビンチの墓である。
アンボワーズからわずか480mほど離れた場所にあるクロ・リュッセ城。
ここはフランソワ1世が幼少時代を過ごした城。

フランソワ1世は身長190㎝の長身、彼は1515年に21歳で王位を継ぎ、イタリアのミラノの近くまで遠征した。
その当時、全盛期を迎えていたルネッサンスの芸術にフランソワ1世は魅了されたのであった。そしてフランスにぜひ芸術家を呼びたいと思った。
1516年、当時22歳だったフランソワ1世がロワールに招いたのが、レオナルド・ダ・ビンチ。その時レオナルドはすでに64歳、天才の名をほしいままにしていた彼にも老いが忍び寄り、イタリアで不遇をかこっていた。
そこにフランスからの招き、新天地を求め、レオナルドはロワール渓谷を訪れた。
フランソワ1世はアンボワーズ簿すぐ近くにあるクロ・リュッセ城を彼とその弟子たちに与えた。
「ここでは考えるも、夢想するも、働くも、あなたの自由です」とフランソワ1世。
レオナルドを尊敬するフランソワ1世は手厚い庇護を約束した。
レオナルドがイタリアからフランスに移り住んだ時に、レオナルドの荷物には、のちにルーブル美術館の至宝となる3枚の絵が含まれていた。
モナ・リザ、聖アンナと聖母子、洗礼者ヨハネ。のちにフランスの至宝となる3枚の絵画あり、彼は生涯それに手を加えていたという。

フランソワ1世が暮らすアンボワーズ城もクロリュッセ上の窓から見ることが出来る部屋でレオナルドは1516年から亡くなるまで3年間過ごした。
イタリアからやってきた

レオナルドとフランソワ1世はまるで親子のように、とても親密な関係だったという。
フランソワ1世は2歳の時に父親を亡くしている。だから尊敬するレオナルドの中に精神的意味の父親像を見出していたようだ。
彼はレオナルドのことを「わが父」と呼んでいたという。

クロ・リュッセには500mの地下道がある。
地下道はアンボワーズ城とつながっていた。フランソワ1世は毎日のように地下道を通ってレオナルドに会いに行っていたという。そして2人は長い時間様々なことを語りあったと伝えられている。
ダビンチはフランスにルネッサンスの精神を運んでくれたのだった。

毎年8月にアンボワーズ城でイベントが行われている。市民演劇「王宮にて」。
フランソワ1世の時代を再現した歴史絵巻、出演者はみんなこの町の人たち。
ロワール渓谷で暮らし始めたダヴィンチは国王の権威を高める為に舞台装置を設計し工夫を凝らした式典の演出を手掛けたという。

フランソワ1世はレオナルドの芸術だけでなく、科学者レオナルドの幅広い知識にも期待していた。特に土木建築の才能がフランスの国づくりにとって大きな力になると考えていたのであった。
クロ・リュッセの城にはレオナルドのもう一つの顔を知ることが出来る施設がレオナルドダビンチパークがクロリュッセの中庭に造られている。
レオナルドが考案した様々な道具を再現したテーマパーク。
しかし、その夢の途中、1519年レオナルドは67才で亡くなってしまう。

レオナルドの設計した理想都市の設計図が残っている。フランソワ1世はレオナルドに町の大改造を依頼していた。それがソローニュ地方の町ロモランタンだという。
ソローニュ博物館に資料が残っている。
レオナルドのイラストやメモを書いた「手稿の複製」を所蔵。
その中にロモランタンの町づくりの都市設計図の一部がある。
図面とプランには、街の中を運河が流れ、宮殿の貴族たちの館を建てる地域、この運河の周りに水車や水揚げ機などを沢山取り付けて、暮らしに羊毛を使った繊維産業をロモランタンに興そうと考えていた。水を利用して貴族も庶民も豊かな生活を送れる。まさに理想都市を構想していた。しかし、計画が進行中の1518年レオナルドは病に侵されてしまう。そして1年後、フランソワ1世の腕に抱かれて帰らぬ人となった。ロワール渓谷に来て3年目だった。
結局レオナルドが描いていた理想都市は実現しなかった。
しかし、その後フランソワ1世が建設したシャンボール城にはレオナルドのアイディアが生かされている。2つの階段が交わらない、上る人と下る人が交わらない二重螺旋階段である。