シュノンソー城 Chateau de Chenonceau



概要

ロワールの支流シエール川にまたがるように建つ。
16-18世紀にかけて増改築され、現在のように美しい城になった。
観光客に最も人気のある城である。

16世紀の築城から19世紀まで城主は全て女性であるのが特徴で、「6人の奥方たちの城」とも呼ばれている。他の城はすべて男性が城主だ。
女性城主が自分好みに改築してきた。
建物の優美さだけでなく、機能的にも女性らしさがある。
女性ならではの暮らしやすさを考えて作られたものが随所にある。
中央に広い廊下がある。それまでの城は部屋と部屋が直接つながっていて、手前の部屋を通り抜けなければ奥の部屋には行けなかった。それではプライバシーが守れということで、最初の女性城主が廊下をも設けたのであった。

建設当初から女性らしさが特徴の城だったが、それをより優雅に改造したのが2代目城主のディアーヌ・ド・ポワチエ(1499~1566年)。実は彼女、国王アンリ2世の愛人であった。
この城は、アンリ2世がディアーヌにプレゼントしたものだった。
彼女はアンリ2世より20歳も年上だった。
だが、類まれなる美貌と知恵を持ち合わせる、国王を生涯虜にした。

アンリ2世は幼いころ、母親を亡くしていた。
そして1526年7歳の時、当時領土争いをしていた神聖ローマ帝国へ人質にとらえられる。
その出発の日、アンリに駆け寄って、誰よりも悲しんだのがディアーヌ(27歳)。
ディアーヌは亡き夫アンリの母親の侍女として仕えていたから、アンリをわが子のように可愛がっていた。
絶世の美女と云われたディアーヌはフランス東部の名門貴族の出身、15歳で40歳以上の貴族と結婚したが、32歳で夫を亡くしてしまう。そんな彼女に手を差し伸べたのがフランソワ1世、美しいだけでなく、音楽や文学に憧憬が深かった。

囚われの身となった幼きアンリは、母を思うようにいつもディアーヌの面影を追っていたという。
そして4年後、やっと領土問題が決着して、アンリがフランスに帰ってくると、ディアーヌは彼の教育係を命じられた。
当時、ディアーヌはすでに31歳、でもその美貌が一向に衰えなかった。しかも知性的でやさしい。
やがてアンリは思春期に、アンリの気持ちが恋心に代わるのは当然の成り行きであった。これが宮廷で20年以上続いた2人の女性の愛憎劇のプロローグだった。

このころ、もう一人の女性が登場する。
カトリーヌ・ド・メディチス(1519~1589年)
1533年、相手はイタリアのメディチ家のカトリーヌ14歳だった。
アンリ2世は15歳で結婚する。
この結婚はフランソワ1世が仕組んだもの。
当時、急速に力を増した銀行家メディチ家とフランス王家の政略結婚である。
莫大な持参金とともに嫁を貰うことで財政的な安定を求めた。
しかし、アンリ2世が愛していたのはディアーヌ、王に即位した後は政治の相談役として徴用し、二人で書類にサインまでしていたという。
まるで王妃のような振る舞いはカトリーヌの正妻としてのプライドを大いに傷つけた。
そんなカトリーヌには目もくれず、アンリ2世(在位1547-1559)はディアーヌに様々なものを贈っていた。

やがてアンリが逞しい青年になった。二人は結ばれ、ディアーヌはアンリの愛人になったのであった。その時、ディアーヌは38歳、美貌にさらに磨きがかかり、しわも一つない肌は透き通るように白かったという。

そして二人の関係を決定的にしたのは、このシュノンソー城だった。
あの美しい城がほしいとディアーヌ。わかった君にあげよう。
アンリ2世は当時国のものとなっていたシュノンソー城をディアーヌに贈ってしまった。 カトリーヌ「いつかあの城を奪い取ってやる」
シュノンソー城を手に入れたディアーヌは、さらに莫大な資金を投じて好み通りに改装した。当時もっとも有名な造園家に庭造りを依頼した庭園には、国中から届けられた色とりどりの花が咲き誇ったという。

王から愛人にプレゼントされた城はそれから華麗な変貌を遂げていく。
16世紀初めには川辺の小さな館と塔だけしかなかった。
ディアーヌはその館と対岸を繋ぐ橋を架けた(1547年)。
川の向こうは森が広がっていた。
ディアーヌはアンリ2世と二人で狩りをするために橋を架けたのだった。
現在、回廊の突き当たりにある扉があり、閉められているが、その先には小さな橋があり、森へとつながっている。
まさにシュノンソー城はディアーヌとアンリ2世の愛の城である。
カトリーヌはディアーヌが王室に気に入られていることもわかっていたので、何も言わなかった。
夫に裏切られ、カトリーヌは孤独であった。

カトリーヌは結婚してから9年間、子宝に恵まれなかった。
世継ぎが出来ないプレッシャーも加わり、ディアーヌに対する嫉妬と憎しみが燃え滾っていた。
そんなある日、ディアーヌはカトリーヌに「何の本を読んでいらっしゃるの?」
カトリーヌ「この国の歴史です」。
この国がいつの時代も娼婦が政治を操っていたんですね。
何とも強烈な嫌味。
カトリーヌはかなり気が強い。
ところがディアーヌは意外なことをアンリに言う。
フランスの世継ぎを与えることはあなたとカトリーヌの義務です。
カトリーヌの寝室へ行きなさい。カトリーヌの寝室にもっともっと通い、早く世継ぎを授かるように勧めた。
しかし、そこには彼女のしたたかな計算があったという。
彼女は感情の人ではなく、理性の人だった。
もしもカトリーヌが子供を産まなかければアンリにはディアーヌ以外にもっと若い愛人が出来てしまうかもしれない。
愛人関係を続け、自分の立場を守りたいという計算があったのである。
ディアーヌの目論み通り、アンリとカトリーヌはその後12年間で10人の子供をもうけた。
1547年、アンリ2世が28歳の時、新国王になる戴冠式がランス大聖堂で行われた。
その時、身に着けていたマントに描かれたアルファベットのデザインは人々を驚かせた。
そのデザインがシュノンソー城の壁に残されている。アンリ2世のH(Henri)とカトリーヌのC(Catherine)を重ね合わせたもの。
しかし、よく見ると、DianeのDにもみえる。ディアーヌにたいしては「ほら、HとDが絡まっているよ」。
カトリーヌには「ほら、HとCが絡まっているよ」というメッセージを込めたのだ。

愛人ディアーヌは歳を取らない美女と呼ばれていた。日課にその証があった。夏も冬も日の出前に起床、ベッドから出てすぐに冷水を浴びた。
朝食はいっぱいの自家製のスープのみ、午前中は2ー3時間庭で乗馬を楽しみ、午後は公務にいそしんだと伝えられている。

転機は悲劇から始まる。
1559年、国王アンリイ2世が40歳の時、馬上槍試合に出場したアンリ2世が相手の槍を目に受け、瀕死の重症を負ったのであった。
カトリーヌはディアーヌに対して、「この部屋に入ることを禁じます」
アンリ2世は愛するディアーヌに会えぬまま死去。
カトリーヌはその葬式にディアーヌを立ち会わせず、王の死後は常に黒の喪服を着て妻としての存在感をフランス中に示したのであった。

これを機にカトリーヌはついに積年の恨みを果たす。
シュノンソー城をディアーヌから取り上げたのである。
国王がディアーヌに贈った宝石は全て返還させなさい。それから、シュノンソー城は私がもらう。
カトリーヌは欲しくてたまらなかったシュノンソー城からディアーヌを追い出して自分のものにした。
アンリ2世という後ろ盾のいないディアーヌは正妻の言葉に従うしかなかった。

ディアーヌがアンリ2世と森へ出かけるためにかけた橋をカトリーヌによって大改築。
シェール川に架かる橋の上に位置する全長60mにわたる長い回廊ギャラリーはまさに水の上に浮かぶ大回廊を造り上げたのである。(1559年)
回廊の両側には大きな窓をしつらえる。朝日と夕日を取り込むためである。
真っ白な壁や天井がその陽射しを反射して回廊全体を輝かせる。
カトリーヌはディアーヌの痕跡を消し去るように美しい回廊を作ることに力を注いでいった。
そしてここで盛大な舞踏会を開き、王の母としての威厳を見せつけたのである。
カトリーヌのおかげで城は美しくなった。
そしてあたかもディアーヌに対抗するかのように2つ目の庭園を造る。
カトリーヌの庭園には明らかにディアーヌへの対抗意識が感じられる。
ディアーヌの庭園は彼女の几帳面な性格がよく表れていて、シンメトリーで幾何学的なデザインだが、それに対してカトリーヌはロマンティックで柔らかい雰囲気の庭園を造ったのだった。

カトリーヌはイタリア・フィレンツェ出身で、この回廊を故郷のポンテ・ベッキオのような佇まいにしようと考えた。おかげで美しい城となった。
故郷イタリアの美を再現させることで、カトリーヌはこれまでフランスにはない新しい城を作ろうと考えた。城の中もイタリアの美で彩られていた。
象徴的なのが緑の書斎と名付けられた小さな部屋。カトリーヌが書斎として使っていた部屋である。装飾された天井にルネッサンスの特徴がみられる。天井の装飾は愛らしい花をモチーフに、柔らかな色彩も女性らしさを感じる。
一方、寝室は赤を基調とした落ち着いたデザイン、天井にはアルファベットのHとCの飾り文字が描かれている。アンリ2世HenriのH、カトリーヌCatherineのCである。
ディアーヌが使っていた寝室には一寸変わった意味ありげなイニシアルが。
王夫妻のイニシアルHとCを重ねたものにディアーヌのDを重ねている。

二人は協力もしていた。
中々子供が出来なかったカトリーヌは、ディアーヌのアドバイスで子供が出来たという。それとイタリア人であるカトリーヌには政敵も多かったため、社交的なディアーヌから王族たちとの付き合い方を学んだといわれている。
カトリーヌにとってディアーヌは異国で生き抜くために必要な知恵袋でもあった。
ディアーヌもフランス王家を守るためにカトリーヌにイタリアの存在が重要だと考えていた。
カトリーヌの緑の書斎から見渡せる美しい庭、カトリーヌはディアーヌの庭を造り変えず、そのまま残したのである。そして城を挟んで反対側に自分の庭を造ったのである。

こうして20年以上続いた愛憎劇の幕は閉じた。

シュノンソー城を手に入れたカトリーヌは、その後実権をにぎり、プロテスタントの大虐殺を起こしたことで(1572年)、歴史に悪名を刻む。
一方、ロワール渓谷を離れたディアーヌは、北へ約200㎞にある、パリ郊外80kmのアネット城Annetteに移り住んだ。この城が彼女の終の棲家になった。
そして彼女の寝室にはあのHとDのマークがあった。愛する国王の死から7年、1566年66歳でディアーヌはこの世を去る。
しかし、死の間際まで彼女の外形の姿は衰えず、30歳代にしか見えなかったという。そこには重大な秘密があった。その謎が長く不明だったが。彼女の死因から近年解明された。彼女の骨からは金の成分が検出されたのだった。
アネット城の教会に土葬された彼女の遺体はフランス革命の際に掘り出され、村はずれの共同墓地に移されたため、長く行方不明となっていた。ところが、2008年共同墓地の清掃作業の時、彼女の遺骨が発見される。ディアーヌの意外な死因が明らかになった。
ディアーヌの遺骨を解析したのが、数多くの歴史上の人物の死因解析をしてきた法医学者フィリップ・シャルリエ氏。
ディアーヌの最後に描かれた肖像画と見つかったあごの骨を重ね合わせると、ぴったり合う。さらに足の骨から記録に残されていた骨折の痕跡も確認できたことでディアーヌの遺骨であるという確証が得られた。
彼女の骨には金の成分が大量に残っていた。さらに、アネット城に残されていたディアーヌの毛髪からも大量の金の成分が検出された。
16世紀のフランスでは金は太陽を表し、それを体に取り込むことで健康を保ち、年を取らないと信じられていた。ただし、それは観念的な意味で、金の成分を取り込むということだったのだが、ディアーヌの場合、金そのものを細かくし、水やアルコールに混ぜて、金微粒子の溶液を飲んでいたと思われる。
空けるように美しかっらディアーヌの肌。金の中毒のような慢性的な貧血のせいだという。金の中毒になると肝臓などが悪くなるという。おそらく彼女はその障害で亡くなったと思われる。
皮肉なことに、ディアーヌは若さを保つと信じていた金を入れた飲み物のせいで亡くなったのであろう。金の含有量から考えると非常に長期にわたり、ほぼ毎日飲んでいたことがわかる。おそらくアンリ2世と一緒にいた30歳くらいから亡くなるまでずっと飲んでいたと考えられる。















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