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ローマ Roma(英語:Rome)(ラチオ州 州都)
●イタリアの中心。北イタリアと南イタリアを分けるところ。
●人口:約300万人


アクセス
空路
国際線:世界各国主要都市と直行便がある。東京・成田からは日本航空とアリタリア・イタリア航空(AZ)併せて週7便(コードシェア便となっている)
国内線:空港のあるイタリア各都市から直行便がある。

鉄道
欧州内各都市からイタリア入りするのは大部分がミラノまでである。パリから唯一ローマへの夜行の直行便がある。

フィウミチーノ空港 Fiumicino (FCO)
レオナルド・ダ・ヴィンチ空港とも呼ばれる。
欧州内格安航空会社便以外はすべてこの空港を使用している
チャーター便もこの空港の発着となっている
ポーターはいない。荷物のカートがある。
市内から南西に36km。
(市内へのアクセス)
鉄道
空港には鉄道駅が隣接しており、ローマ(テルミニ)駅への直通便がある(約30分)。
テルミニ駅は一番はずれの25-26番線に到着する。タクシー・バス乗り場のある正面の広場までは400mほど駅構内を歩かないといけない。
リムジンバス
「アリタリア・エアポートバス」が空港/ローマ・テルミニ駅間を運行。片道7ユーロ。(2011年7月から)
鉄道の場合、大きな荷物を持って両駅とも駅構内を移動するのは結構大変だ。
オスティエンテ駅、デッレフォルナーシ通り/サンピエトロ、サンジョヴァンニ・インラテラーノへの路線も準備中。
現在、ターミナルCは拡張工事中で、ターミナルBに誘導される。出発の際のチェックインカウンターも、たびたび変更される。



チャンピーノ空港 Ciampino (CIA)
欧州内の格安航空会社便の発着のみとなっている。
市内から南東に15km。


市内の交通機関
●市内の主要観光ポイントへはほとんど徒歩の距離にある。
●市内中心部の移動はほとんどバスとなる。
●宿泊するホテルの近くを走るバス路線を早く覚えることがコツだ。
●ルートによっては本数が少ないところもあり、日曜日は運行されていない路線もある。
●一方通行が多いため、往路と復路が同じ道路を走らない頃が多い。
●乗車券は車内では購入することができない。事前にTマークのあるたばこショップやバールで購入しておかないといけない。時々行われる車内検察で乗車券を持っていないと罰金を取られる。50ユーロ。
●乗車券は市バスと地下鉄が共通で、一定期間なら自由に利用することができる。
90分間券、1日券、1週間件、30日券がある。チケットはビリエットといい、通常は90分間券を売ってくれるが、それ以外の期間券は英語でone day,one weekと言ったらいい。
●乗車当日の初乗りははじめに車内運転手の後ろにある日時刻印機に挿入する。これで肇園切符が当日有効になる。
●切符は滞在期間に合わせてあらかじめ沢山購入しておくといい。その都度購入しようとすると周辺にたばこショップがなかったりして不便を感じる。
●地下鉄は2路線のみで、近郊の住宅地を中心部を結ぶ通勤向けにできている。
●ローマ近郊への日帰り旅行などには国有鉄道会社FS線を利用することもできる。
ただし、地域によっては運行本数が極端に少ない。地下鉄で終点近くまで行ってそこから郊外のバスCOTRAL社を利用した方が便利だ。

ローマ近郊鉄道路線網

ローマの見どころ
ローマには教会が多いが、どこも内部に入るのには注意しなければいけないことがある。
ノースリーブや足ひざ丸出しの短パンやミニスカート、ぞうりでは聖堂内に入れない。
肩や足ひざをスカーフで覆っておくとOKだ。内部はいつも静かにしていなくてはいけない。
またカメラのフラッシュ、三脚の使用は出来ない。
教会以外の遺跡へは、買っては無料で見学できたところも、現在はほとんど有料になり、しかも高額で、イヤホーンつき案内などを付けているところもある。
ツアーの多くは、ない美見学をせずに、外観だけで済ませてしまうものが多い。
内部見学にはどこもかなり時間がかかってしまう。
フォロ・ロマーノ Foro Romano 
パラチーノの丘の麓の窪地に広がる遺跡。古代ローマ発祥の地であり、ここが中心だった。フォロは「公共」の意味で、市民生活はここに始まり、下水道が整備され、元老院、神殿、裁判所から商店街まですべてが集まっていた。やがて手狭になり、皇帝たちは周辺に自分の名をつけたフォロを造っていった。しかし、5世紀の西ゴート族の侵入で、フォロは荒廃して忘れ去られる運命となり、ルネッサンス期にはフォロの建造物の大理石が切り出されて雑草の生える地となってしまっていた。19世紀になって発掘調査が始まり、少しずつ紀元前のローマの中心の跡が現れてきた。
コロッセオ Colosseo 
現在もローマのシンボル的存在であり、古代ローマ以来最大の建造物として、ローマを訪れるすべての観光客が下車見学する。
AD80年に出来たもので、フォロ・ロマーノに隣接している。楕円形をし、周囲527m、高さ50m余りの4階建てで、観客席4万5千人、立見席5千人分。現在は地下の部分が剥き出しになって見学できるようになっているが、ライオンやトラなどの猛獣の檻があった。人間との戦い、格闘技が繰り返されていた。円形闘技場へは有料で、観客席部分から現在は地下の檻の上に渡り廊下を作って様子がのぞけるようにしてある。
コロッセオのすぐ前にある凱旋門はコンスタンチヌスの凱旋門。古代ローマ時代皇帝たちは領土を拡大し、属州を作って凱旋して戻ると自らの凱旋門を建造していったので、フォロ・ロマーノの中や周辺にも凱旋門が多い。
サンピエトロ広場 Piazza San Pietro 
ローマ市内の一部になっているヴァチカン市国。その一部にあたるのがサンピエトロ広場である。周りを回廊で囲み、広場に面して建つサンピエトロ大聖堂に引き寄せられるかのように楕円形(長径240m)をしていて、この広場には最大で40万人を収容できるという。イタリアバロックの巨匠ベルニーニの設計による。中央に1世紀エジプトのアレキサンドリアから運び込まれたオベリスクが立っている。回廊は4重のドーリア式円柱284本で出来ており、回廊の屋上には3.5mの聖人像が140体配されている。
毎日曜正午、この回廊の右手後ろのヴァチカン宮殿の3階の窓から法王が手を振って祝福のメッセージを集まってきた広場の人たちに送られる。そのとき広場は市民や観光客でいっぱいになり、しばらく動きが取れなくなる。
サンピエトロ大聖堂 Basilica di San Pietro 
ローマで布教活動をしていたキリストの使徒聖ペテロが皇帝ネロによって殺され逆十字架にかけられ亡骸を埋めたところを墓とし、その上に建設されたのがこの大聖堂の始まりである。4世紀初めコンスタンチヌス大帝による教会建設を公認したときである。その後荒れ果てたままになっていたが、16世紀法王ユリウス2世のときに大改修を計画し、約20年かけて1626年に現在の形に完成した。ブラマンテの設計から、ミケランジェロ、ベルニーニなど著名な芸術家がこの建設に加わっている。
正面から入るとすぐ右手にミケランジェロの25歳のときの大理石彫刻「ピエタ」がある。聖母マリアが十字架から降ろされたキリストを抱きかかえる姿である。1972年、暴漢にマリアの手の部分が打ち砕かれたが、完全に修復してからはガラスのフェンスで覆われている。奥に進むと中央に法王の祭壇があり、その真下が聖ペテロの墓があるところとなる。左手壁面側に屋上へのエレベーターがある(有料)。通常の観光では屋上へは上がらない。屋上テラスからはサンピエトロ広場やローマ市内が一望できる。背後の円形ドーム(132m)はミケランジェロの設計。

ヴァチカン博物館 Museo e Garrellie del Vaticano 
歴代法王の住居だったヴァチカン宮殿は1400もの部屋や礼拝堂があり、そのうちの20余りを博物館や美術館にしている。時代ごとにいくつかの博物館・美術館が続き、一巡するとシスティーナ礼拝堂 Cappella Sistina へと進んでいく。法王の要請を受けてミケランジェロが描いた天井のフレスコ画がこの博物館の最大の見どころ。創世記を主題に9場面ある。そして祭壇のうしろの大きな壁面に「最後の審判」が描かれている。先ごろこの天井画と壁面の修復が終わり鮮やかな色彩が蘇っている。
このヴァチカン博物館入場は通常月曜を除く9時〜13時までに限られているが長蛇の列となっている。
団体のツアーなどは旅行会社があらかじめ予約をして団体入場する。
予約された団体は8時45分までに来ていれば優先入場させるようになっている。遅れると一般同様列に並ばなければいけない。
入口は広場とは別で宮殿の裏側にある。館内は順路に従って見学するが、出口はサンピエトロ広場の方になる。

トレヴィの泉 Fontana di Trevi 
建物の壁面いっぱいに施されている大きな彫刻から流れ出る水を泉に溜めてある。水は遠くから水道橋を使ってローマ市内へ運ばれ、市民の生活用水とされた。各広場の泉は周囲の生活者の水汲みの場であり、高いところから低いところへと無駄なく地下を通っていくつもの泉へと流れていく。当時の土木技術の高さを知るところである。トレヴィの泉も周囲の建物に住む人たちにとって大切なところだった。
この泉に背を向けてコインを1個泉に投げ入れると再びローマを訪れることができるという言い伝えが広がり、観光客はほとんど同じようにしてコインを投げ入れている。ここは周りの道路が狭く、車の乗り入れができない。

スペイン広場 Piazza di Espagna 
スペイン階段とも言うが、階段下にスペイン大使館があったところからついた名前である。
広場は137段の階段からなっていて、若者を中心にいつも観光客が集まっている。映画「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンがアイスクリームをなめていたときグレゴリーペックが声をかけるシーンはここが舞台である。階段の下が通りになっていて、船の形のバルカッチアの噴水がある。バルベリーニの作である。ここからまっすぐに伸びる狭い通りがコンドッチ通り Via Condotti で、ローマで最も高級なブティック街とされている。
階段の上の2つの鐘楼を持つ教会は、トリニタ・デイ・モンティ Trinita dei Monti 教会という。約90年の歳月を費やして1585年に完成したものだ。
カフェ・ノテーゲン;Café Notegen 1880年創業
「ローマの休日」でアン女王がはじめていくオープンカフェはこの店のセットを作って撮影された。
-パンテオン Pantheon 
紀元前27年、オリンポスの神々を祭るために建てられた神殿だったものを7世紀のキリスト教会にしたため、のちの時代に壊されないでオリジナルの姿を今に伝えている貴重な建造物である。
直径43m、高さも同じ43mの円筒形の建物に半球形状の円屋根を乗せている。円屋根の中心部分に直径9mの円形の天窓が開いていて採光している。内部には何もなく、豪華な色大理石で装飾されている。
ナボナ広場
4大河を表す噴水。ベルニーニ作
(ナイル、ガンジス、ドナウ、ラプラタ) 
サンタマリア・デッラ・ビットリオ教会;
ベルニーニ作;「聖女テレージアの法悦」
サンタマリア・マッジョーレ教会;
ベルニーニの墓。(1680)


ローマ見学でたびたび登場する皇帝たち
アウグストゥス (在位BC27AD14)
シーザー(カエサル)暗殺の後の混乱を収拾し、41年間の長い間最高権力の地位で帝政時代を築いた。アウグストゥス帝以降の2世紀の間はローマの支配下全域に平和をもたらされた。この時代を「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)という。
フォロ・ロマーノに新しい様式の建築物、ローマ水道橋の公共施設の建設を推進し、ローマを14区の行政区に分け、防犯防火体制を整備していった。よって市民にも元老院にも親しまれ、「国父」の称号を与えられた。

ネロ帝 (在位AD54〜68)
暴君として知られる皇帝。
はじめの5年間は善政を敷き市民にも人気があった。しかし、権力志向の強い母親アグリッピナ、妻オクタビア、後妻ポッパエアを次々に暗殺してからは暴君へと変貌。
54年にローマの大半を焼き尽くす大火を発生、火事の責任をキリスト教徒に転嫁し迫害した。ローマ市復興のためと称して増税、富裕市民からの財産没収などをして評判を落とした。
65年、ネロの殺害の陰謀が発生し多くの人が処刑された。
68年、ガリアの氾濫が起こり、ローマを逃れて自殺。

トライアヌス帝 (AD在位98〜117)
5賢帝の一人。
属州だった現在のスペイン領に生まれる。軍事的才能に優れ、北アフリカ一帯から、アラビア、アルメニア、メソポタミアなどへも遠征。領土拡張は最大に達した。属州の各地の水道事業もトライアヌス帝のときに尽力したもの。
内政面では救貧政策を実施し、オスティア港の改修工事、トライアヌス街道の整備、ローマ市内のトライアヌス・フォルム広場の建設などの土木事業を進めた。これらが認められ、元老院から「最良の元首」の呼称を与えられた。

ハドリアヌス帝 (在位AD117138)
ローマ帝国最盛期。5賢帝の一人
スペイン出身のトライアヌス帝の甥。117年にトライアヌス帝の養子になり、帝位を継ぐ。
ギリシャの統治官をつとめていたギリシャ志向の皇帝で、彼はいち早く硬直化したローマの都と拡大化した帝国に疑問を抱き、拡大政策から防御政策に転じた。そして21年間の在位のうち12年間を属州各地を視察して回ることにして、辺境の防衛を強化した。イギリスのハドリアヌスの長城もその一環の建造物。ローマ市内にもいつくかの建造物を残したが、彼は建築家としても優れた才能を持っていた。パンテオン、トライアヌス神殿、ハドリアヌス墓廟(サンタンジェロ城)などがある。183年没し、自ら建設したこのハドリアヌス帝廟に埋葬された。

コンスタンチヌス帝 (在位306〜337)
ローマ皇帝としてはじめてキリスト教信者となった。
313年にミラノで「ミラノの勅令」を発布して、すべての宗教に対して信仰の自由を認め、キリスト教を公認した。
公共浴場、水道事業などの都市整備を推進する一方、キリスト教のバジリカ、洗礼堂などの建物を積極的に建設した。しかし、過去の栄光にうずもれたローマの建て直しはもはや不可能と考え、330年にコンスタンチヌノ―プルへ遷都。

ディオクレチアヌス帝 (在位284〜305)
度重なる他民族の侵攻や皇帝暗殺が続いたときに現れた皇帝。
キリスト教徒を迫害し、都ローマの秩序回復を図った。いろいろな改革は安定した時代へ導いたものの、帝国全体を視野に入れた改革とはならなかった。305年引退すると帝国は内乱に陥った。