概要
特産のピスタチオやブドウ、オリーブなどの農業が盛んなほか、近年はテキスタイルや食品加工などの軽工業の町として発展、人口約70万人を数える東部の中心都市の1つ。

町の名は、独立戦争の際、市民の英雄的な行為にちなんで付けられた(ガズイは古参兵の意)が、オスマン帝国時代にはアインタプと呼ばれていた。

町の誕生はBC2500年頃。BC717年にはアッシリアに代わり、アレキサンダー大王を経て、1070年にはセルジュク朝が十字軍と覇権を争って奪回した。そしてオスマン帝国時代には、様々な文化が混在し、融合してこの町の文化を形成していった。

1920年、トルコはセーブル条約によって国土分割の危機に立たされ、アインタブはフランス軍の攻撃を受けた。これに対し、10カ月もの間抵抗を続けた英准行為が、新しい町の名前となったのである。

急速に発展する近代都市で、城塞と周辺のバザールや商店街、ゼウグマの遺跡から運ばれた出土品を収めたガズイアンテプ考古学博物館などがある。

ピスタチオを使った菓子バクラヴァ、トルコ風ピザのラフマージュンの本場として知られ、象眼細工も有名である。

近代的なホテルが多く、さらに建設中のホテルもある。空港から町までは20kmで、南東部のゲートウェイとしての立地に恵まれている。

シヤンルウルフアへ145km、キヤフタへ210km、デイヤルバクルとマルデインへはそれぞれ330kmとなる。


ゼウグマZeugma
ガズイアンテプの東45kmのニズイプからさらに10km行った、ベルクスで新たに発掘された世界的に注目される古代ローマの遺跡。

南東アナトリアプロジェクトと呼ばれる開発計画の1つとして、1996年に着工したユーフラテス川流域のビレジタグム建設が発端となり、5月にニューヨークタイムズ誌が「ローマ遺跡の水中墓地」のタイトルで記事を発表。これを契機に、国内外の注目が集まったことによって、ベルクス(ゼウグマ)の発掘調査が始まった。しかし、現在そのほとんどは湖底に沈んでいる。

アレキサンダー大王の武将のひとりで、セレウコス朝の開祖でもあるセレウコスTニカトールが、ユーフラテス川を容易に渡れる地点を選び、その両岸に2つの都市を建設。東岸を妻のアパマにちなんでアパメイアと、西岸の町を自らの名にちなんでセレウセイアと名付けた。後に西岸の町はコンマゲネ王国の重要な町として急速に発展し、ゼウグマとして知られるようになる。

ローマ帝国支配下では軍事、行政の重要な拠点となり1〜2世紀に繁栄するが、256年にササン朝サパー工によって包囲され、破壊された。こうしてゼウグマは、ユーフラテス川南東アナトリアプロジェクトと呼ばれる開発計画の1つとして、1996年に着工したユーフラテス川流域のビレジタグム建設が発端となり、5月にニューヨークタイムズ誌が「ローマ遺跡の水中墓地」のタイトルで記事を発表。これを契機に、国内外の注目が集まったことによって、ベルクス(ゼウグマ)の発掘調査が始まった。しかし、現在そのほとんどは湖底に沈んでいる。

アレキサンダー大王の武将のひとりで、セレウコス朝の開祖でもあるセレウコスTニカトールが、ユーフラテス川を容易に渡れる地点を選び、その両岸に2つの都市を建設。東岸を妻のアパマにちなんでアパメイアと、西岸の町を自らの名にちなんでセレウセイアと名付けた。後に西岸の町はコンマゲネ王国の重要な町として急速に発展し、ゼウグマとして知られるようになる。

ローマ帝国支配下では軍事、行政の重要な拠点となり1〜2世紀に繁栄するが、256年にササン朝サパー工によって包囲され、破壊された。こうしてゼウグマは、ユーフラテス川岸のピスタチオ畑の下に眠ることになる。1992年、遺跡の警備員が丘の北東斜面に盗掘者の掘ったトンネルを見つけたところ、内部の床はモザイクで覆われていた。半ば盗掘者によって荒らされた遺跡は、ガズイアンテプ博物館のリファトエルゲチェの指揮で発掘が進められた。

8本の円柱に囲まれた広間は幾何学模様のモザイクで敷き詰められ、回廊の床は「デイオニソスの結婚」「ワインとブドウの神」「クレタの王女アリアドネ」などを描いたモザイクで覆われていた。砕石で描かれた10点のモザイクのうち6点は7.3×3.5mあり、これらを含む39点のモザイクをはじめとする出土品は、ダム工事を一時中断して1998年にガズイアンテプ博物館へ運び出された。しかし歴史的にも美術的にも希有なこの世界的コレクションの中には、博物館に収容しきれず屋外庭園に置かれたままのものも多い。
1997年には、BC3000年頃の青銅器時代の墓地が見つかり、発掘された遺跡は最終的に5000エーカー(2000f)になった。

デュトルから5kmの湖畔のピスタチオ畑の中に、わずかに残る遺跡の発掘跡と湖底に沈んだ遺跡を見ることができる。gto