概要
カッパドキアの中心になるギョレメやユルギュップから約100km東に位置する人口約43万人の都市。
イスタンブールからの空路のゲートウエイになる都市だ。
エルジャス山の北側斜面、カラス川の潅漑でできた平地の端にあり、織物、砂糖の精製などで生計を支える活気ある町である。

歴史の初期から人々が集落を形成し、考古学の専門家連によって発掘されたキュルテぺとエーリキョイ・ホエックは有名である。
初期青銅器時代、アッシリア交易植民市の時代、ヒッタイト期に重要な役割を担ったカイセリと近郊は、後期ヒッタイト時代にタパル国の名で呼ばれていた。
アッシリア等に続き、550年以降はペルシアの支配下におかれてサトラップ制のもとでカバドキア郡の中心都市として活躍した。
その当時の名を‘マザ力”とし、アレキサンダー大王の来訪と共にマケドニアの手に渡ったが、大王の死後はペルシアに祖をもつアリアラテス族の支配下にしかれ、独立国であるカバドキア王国の中心としてユーセベイアの名で知られる様になった。

アリアラテスの勢力はボントス王ミトリダテスがB.C.90年に自らの子息をカバドキア王として宣言するまで続いている。B.C.66年、カバドキアは再びローマ人の手中に落ち、長い間ビザンチンの支配下におかれた。アラブの襲撃に際して何度か崩壊の危機に瀕したが、1071年のマラズギルトの戟いの後は、セルジューク帝国の要地としてその地位を一時、確立させている。
1097年、第一回十字軍により征服され、以降、ダニシメンオール、セルジューク、そして1243年に勃発したキョシュダーの戦以後モンゴルに支配され、多くの戦いをくぐり抜けたアナトリアの中心に位置するここカイセリが、ついにオスマンの領土に包含されたのは1515年のことであった。

この町は昔ながらの保守的なところが残っていて、夜9時に商店はみんな閉まってしまい、町は静まり返ってしまう。
町の中央となるのはジュムフリエト広場Cumhuriyet Meydani。
南側が旧市街の中心にあたり、玄武岩の壁をめぐらした城砦が目に入る。


アクセス
空路
トルコ航空Turkish Airlinesがイスタンブールから毎日2便ほど就航している。

空港
エルキレット空港 Erkilet Airport
市内までのシャトルバスもあるが、長距離バスターミナル(オトガル)まである。便に合わせたもので、空港でモタチていると発車してしまう。
カッパドキアの中心ンおギョレメやユルギュップまでも運行されているが、予約制になっている。
町の中心地までのタクシー料金は約US$10。

バス
カイセリは、トルコの中でもほぼ中心になる地点になり、東西と南北に交差する主要道路にバスが頻繁に運行されている。

鉄道
イスタンブールから東部方面への長距離鉄道が、カイセリにも停車する。
ヴァンギョル・エクスプレシ Vangolu Ekspresi:
(イスタンブールIstanbulとディヤルバクルDiyarbaklr,日によってタットワンTatvan間)
ギュネイ・エクスプレシ Guney Ekspresi
(イスタンブールIstanbulとディヤルバクルDiyarbaklr間)
ドゥ・エクスプレシ Dogu Ekspresi:
(イスタンブールとカルスKars間)
ドゥ・エキスプレシDogu Ekspresi。
などがある。
チュクロヴァ・エキスプレシCukurova Ekspresi:
(アンカラAnkaraとアダナAdana間)
カイセリ駅はデュヴェノニュ広場からは北500m余り、アタテユルク大通りAtattirk Bulvanの北の端にある。


カイセリの見どころ
カイセリの要塞
黒い火山岩でできている。
地理学者ストラボンによると、古代カエサレアの町には城壁がなかった。
最初の城壁は東からの脅威ペルシアの襲撃を仮定して建造されたと推測される。
6世紀の資料によると、6世紀にローマのビザンチン皇帝ユスチニアヌスの時代に造られ、長きにわたって町を守り続けたこの要塞には、1224年頃にはセルジュク朝スルタン、ケイクバット1世の時と、1486年には征服王メフメト2世の時代に補修・増築の手を加え、内外の二重の造りを備えるようになった。

ウル・ジャーミ Ulu Cami:(大モスク)
資料によると1135年〜1150年の間に建築され、約1750uの面積をして、カイセリで当時最大のモスクであった。
ミヒラブ(メッカの方向におかれた壁の窪み)に並行して8つの区画がとられ、二つのドームに覆われている。

ファンド・ハートサン学問所:
アナトリアで最初の、そして最も美しい学問所は、モスク、神学校、ハマム、霊廟を備えた複合施設で、1238年、セルジューク朝のスルタン・アラエッディン・ケイクバト王女の母御マフペソ・ハートゥン王妃の命によって建造されている。

クルシュンル・ジャーミKursunlu Cami:
オスマン帝国お抱えの建築家スイナンが1584年に造らせたと言われる小規模なモスク。
外側をクルシュン、カイセリドネル・キュンベト(霊廟)即ち鉛葺きドームがその名の由来である。
バルク通りのすぐ北側、ジュムフリエト広場の西側に立っている。

ドネル・キュンベト:
霊廟の町とも言われるカイセリで最も有名な記念墓は、町の南西に位置している。
セルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの娘ジハン・ハートゥンの為に1276年に造られた廟で、動物、植物、幾何学模様を用いた装飾が、セルジュークの石細工の美しさを披斉している。

チフテ神学校Cifte Medrese:
1202年〜1206年、セルジュークのスルタン・グヤセッティン・ケイフスレヴによって造られ、アナトリアに見られるセルジューク時代の最も古い医学校、病院になっていてた。
中庭の右手にはメスジットmescit(小モスク)があり、この中にはゲヴヘール・ネシベ・スルタン王女の眠る霊廟がある。

ハジュ・クルチ・ジャミイ Haci Kilic Camii:
チフテ神学校の北側にある。
1249年にセルジュク人の高官アブドゥル・ガジのために造られた。

ドネル・キュムベト Doner Kumbet:(回転する霊廟)
カイセリ城から南東に約600mのタラス通りTalas Caddesiにある。

サヒビエ神学校 Sahibiye Medresessi:
ジュムフリエト広場Cumhuriyet Meydaniの北側にある。
1268年に建てられたもので、ひときわ美しいセルジュク様式の門がある。
現在は本の市場として利用されている。

バザール
東西・南北の交易路が交差する位置するカイセリは、何千年もの間、重要な商業の中心地だったので。バザールでの交易も盛んだった。
城砦の横にある屋根の付いたバザールは、オスマントルコ時代の雰囲気を見事に再現している。

考古学博物館 Archaeological Museum
各時代の最も美しい作品を以てアナトリア文明を物語るこの博物館は、長く、複雑に絡み合ったカバドキアの歴史を理解する為に手助けをしてくれるに違いない。
1969年に開館して以来、中央アナトリアの地方博物館として独自の位置を保ってきた。
庭にはカイセリの南で発見されたプラクティンの記念碑の模倣作品があるほか、ヒッタイト時代はギョッルダーの獅子も有名である。
展示品として、アナトリアの母神像、ヒッタイトの土器、ヒッタイトの嵐の神を表す浮き彫りなどがあり、ギリシア、ローマ時代に属する作品も必見の価値がある。


カイセリの周辺の見どころ
キュルテペ Kultepe(カニシュ・カルム KanisKarum 灰の丘)
カイセリの北東20kmの地点にある遺跡。
世界最古にして最も豪華なバザールで、金属を専門に商い、アナトリア随一の商業居留地だった。
紀元前1850年頃、アナトリアAnatolia最強の王国の中心地となり、城壁の外にはアッシリア人の商業居留地カルムKarumが発展していた。
この遺跡は道路をはさんで2カ所に分かれている。
カニシュの宮殿跡地Palace complexは20mの高さの丘にある。
宮殿の他に大きな寺院と4つの巨大な控え壁がある。
道路を渡ってカルムに入ると、素人でもすぐに家や店、道路、骨壷、天火、かまどを見つけられる。アッシリア居留地跡のもので、発掘の残留物だ。
カイセリからタクシーで往復するといい。

インジェス Incesu
カイセリの南西35kmに位置する新しい町。
1667年に大宰相カラ・ムスタフア・パシヤのために建設された町。
カラ・ムスタフア・パシヤは、オスマントルコ軍を率いてウィーンを襲撃して失敗した。
古い町の廃墟は大部分が今も残っていて、ほかにも広大なキャラバン宿、モスク、公衆浴場からなる壮大な複合建造物も見られる。

エルジエス山 Mt Erciyes
カイセリから南26kmにある標高3916mの死火山。
トルコでは数少ないスキー場がある。