レマーゲン Remagen

ラインラント・プファルツ州
人口;約17,000人

概要

ボンBonnの南23km、ライン川の西岸に位置する小さな町。
何よりこの町を有名にしているのが、ライン川の両岸に立つ4本の橋脚塔跡である。
1945年のあの運命の日を除いて、この町が歴史書に登場することはほとんどなかった。

ライン河に架けられた鉄道橋は1916年、第一次世界大戦中の西部戦線への軍需品輸送のために建設された。長さ325mで2本の線路と歩道が設置されていた。
架橋提案者の一人であったエーリヒ・ルーデンドルフ将軍に因んでルーデンドルフ橋と命名された。

ルーデンドルフ橋(通称レマーゲン鉄橋)

第二次世界大戦の勃発後、この鉄橋は建設時の目的どおり有力な軍事補給線となり、連合軍の反攻後はしばしば米英空軍による空襲の対象ともなっていたが、損傷する度に独軍側が修復していた。

ドイツ軍は戦況の悪化で敗走を余儀なくされていたため、天然の要害であるライン河を盾にして防御するしかなく、ライン河にかかる橋を全て爆破するように命令していた。
ブロック将軍は、河の向こうには7万5000人の兵が残されており、この友軍が撤退できるようレマゲン鉄橋をぎりぎりまで残し、連合軍が間近に迫ってから破壊しようと考えていた。将軍は腹心の部下、クリューガー少佐を橋防衛部隊の指揮官に任命し、連合軍が橋の目前まで迫るまで爆破しないように指示していた。
ところが、クリューガー少佐が橋に赴くと、兵員はほとんどおらず、爆破のための爆薬すら無い状況であった。やがて、アメリカ軍が橋の間近まで迫り、橋をめぐる攻防戦が始まった。

連合軍がドイツ攻略のためにフランスとベルギーから押し寄せたとき、ドイツ軍は橋を爆破しようとしたものの、ルーデンドルフ橋は爆薬の量が不十分であったために橋は落ちず、アメリカ軍が同日4時5分に橋を確保した。連合軍が川を越えるまで無傷のまま持ちこたえた。

1945年3月7日、アメリカ軍はこの橋をほとんど無傷のまま獲得し、それによってライン川右岸に橋頭堡を築くことができたのである。
橋はドイツ軍の爆破のために酷く損傷していたが、24時間の間に約8,000人のアメリカ兵がライン河を渡ることができた。

1945年3月17日午後3時過ぎ、ドイツ軍の攻撃に耐えていた鉄橋は200人の米軍工兵による補強作業中に崩落し、死者28名、負傷者93名を出した。しかしながら、既にその頃にはアメリカ軍は対岸に橋頭堡を確保していたうえ、並行して浮橋を完成させており、橋の崩落が軍事作戦に与えた影響は最小限であった。

鉄橋は戦後もついに再建されず、今なお当時の姿のまま、橋脚だけが東西の岸にそびえている。西岸の2つの橋脚塔の上にはアメリカ合衆国国旗、ドイツ国旗が掲げられている。
鉄橋は残っていないが、現存する塔の一つが、1980年3月、橋塔内部に平和博物館Friedensmuseumになっている。2003年には展示を一新し、米軍が当時、この地に設けた戦争捕虜収容所に関するコーナーを加えた。

このことは1969年にアメリカ合衆国で「レマゲン鉄橋」The Bridge at Remagenとして映画化された。ライン河に残されたほぼ唯一の橋であるレマゲン鉄橋(ルーデンドルフ橋)をめぐる連合軍とドイツ軍の攻防戦を描いている。
日本でも公開され、たびたびテレビ映画として放映されている。

レマーゲンへのアクセス

レマーゲン駅 Remagenは特急ICEが停車しないのでフランクフルトから行くときには、コブレンツKoblenz Hbfで普通列車に乗り換える。

Frankfurt(Main)Hbfからコブレンツまで特急ICEで約1時間30分、
コブレンツからレマーゲンまで普通列車RBで約35分。

ケルンからは直通の地域特急ICで35分。
ケルンからはライン川の北側のルートを通る路線が多いので、利用するとき注意を要する。















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