ベルリン Berlin

ドイツの首都
人口;約3,700,000人
面積 891.85 km2 (パリ20区の8倍、東京23区の約1.5倍)
30%が緑地
12の行政区


概要

40年以上にわたって東西に分かれて活気のなかった都市ベルリンも、今では21世紀を代表する都市となり、経済的・文化的活動力に溢れた第一級の現代都市に成長している。
ベルリンの壁が崩壊して以降、ドイツの首都として必死に前進を続け、世界でも有数の芸術家、科学者、建築家など、あらゆる分野のアーティストを惹きつけるヨーロッパの若者文化の中心地となった。
とりわけ、東欧の旧共産圏諸国の人々を取り込んでいくという期待感が、この町の空気を活性化している。

東西分裂統治時代、西ドイツの飛び地だった西ベルリンでは、徴兵制が適用されていなかった。
「陸の孤島」西ベルリンを目指して若者たちとともにアーティストも多く移り住んだ。
ベルリンの壁崩壊後の旧西ベルリンのアーティストたちはいち早く東ベルリンでの活動を始めた。シュプレー川沿いの通りには、1,3kmにわたるベルリンの壁が残されている。
24か国118人のアーティストによって作品が描かれ、オープンギャラリーとして保存されている。

ベルリンはいまや24時間いても飽きない街になっている。日中は、由緒ある名所を訪れたり、次々に誕生する斬新な建造物が複合商業施設となって、新たな創造的文化を生み出すパビリオンを散策したり、整備・拡大して魅力的になった博物館・美術館を見学したりする。
一方、日が沈むと若者の街ベルリンは本領を発揮する。
ベルリンは、奔放で魅力的なナイトライフが次々に生まれている。静かで落ち着きのある店から、おしゃれで騒げる飲み屋まで、さながら東京の新宿、渋谷、六本木のようだ。
オペラ、クラシック音楽、演劇などの優雅な文化を楽しむこともできる。

他の大都会の盛り場と異なるところは、通りや広場が大きいので、狭いところに電飾看板がぎっしり連なっているようなところはない。一年の半分以上は極寒の寒さで夜一杯機嫌で巷をぶらつくわけにはいかない。大きな建物の中にあるお目当ての店に入っていく。
旧東ドイツの地区に再開発された複合商業施設があるのであらかじめ調べてから直行するといい。
他のヨーロッパではブティックでも、夜の盛り場でも一定地区にまとまってあるが、ベルリンはあちらこちらに飛んでいて、どこが中心地なのかわかりにくい。
ベルリンの地図を見ながら、お目当てのところはどの辺に位置するのかを事前にチェックしておいた方がいい。
大部分はミッテ地区の集中しているが、ベルリンの暗い時代のモニュメントを見聞したい場合には、少し離れているところもあるので、時間をかけて巡る必要がある。
時間と費用をかけて遠方から訪れる旅行者としては、ベルリンの現代史の遺構を見学するのも大切なことだろう。

ベルリン名物にカレーソーセージがある。
ソーセージにトマトケチャップとカレーパウダーをまぶすのが一般的。
第2次世界大戦後の占領下のベルリンで誕生し、今ではドイツ各地で愛されている。
数年前にはカレーソーセージ博物館もできた。

変遷の激しいベルリンはガイドブックの記載が追い付かないほどだ。
少し古いガイドブックに載っている見学ポイントが消滅していたり、美術館では展示絵画がほかの美術館に移っていたりする。

アクセス

空路

日本からの直行便は就航していない。
ドイツ国内フランクフルトまたは近隣のヨーロッパの都市での乗り継ぎとなる。
フランクフルト乗継(LH,JL,NH)
ミュンヘン乗継(LH,NH)
ヘルシンキ乗継(AY、JL)
ウイーン乗継(OS,NH)
チューリッヒ乗継(LX)
アムステルダム乗継(KLM)
コペンハーゲン乗継(SAS)
ロンドン乗継(BA,JL,NH)
パリ乗継(AF,JL,NH)
ワルシャワ乗継(LO)
季節により、曜日により頻繁に変更されるため、同日乗り継ぎできない都市もある。

「コロナ」の影響で旅行者が減少しているため、国際線が大幅に運休になっており、接続できる路線が限られている。

鉄道

長距離列車の出発駅はベルリン中央駅 (Berlin Hbf)
ドイツ国内は主要都市から特急ICEが運行されている。
国際線は隣国のポーランド・ワルシャワ、チェコ・プラハ、オーストリア・ウイーンとの間に特急が運行されている。
ベルリンBerlin Hbfから
ワルシャワWarszawa Centralna 直通で最速6時間、
プラハPraha hl.n. 直通で最速4時間20分
ウイーンWien Hbf  直通で約8時間

空港

現在、ベルリンには2つの空港が使用されている。

ベルリン・テーゲル空港 Tegel(TXL)
ベルリンの中心部に位置する空港。現在は市で最も便数が多い空港である。

ベルリン・シェーネフェルト空港 Schonefeld(SXF)
ブランデンブルク州にある空港。

開港予定 ベルリン・ブランデンブルク国際空港 Brandenburg(BER)
シェーネフェルト空港を拡張して開港する予定の空港。2020年10月31日にオープン予定。
開港後、テーゲル国際空港およびシェーネフェルト国際空港旧ターミナルは閉鎖される予定。

ベルリン中央駅 Berlin Hauptbahnhof

ドイツが統合されたことで、それまで長距離列車の拠点となるターミナル駅も2つに分かれていたのを2006年3月26日に新しく建設した「ベルリン中央駅」に統一した。
すべての国際列車、中長距離国内列車はここが発着駅になった。
ヨーロッパ最大のターミナル駅で、全面ガラス張りのモダンな駅。
プラットホームは7面14線(うち1面2線はSバーン用)。
高架ホーム
地上3階、地上からの高さ10mに位置する。ホームは東西方向に伸びている。
11 - 14番線:長距離線(特急(ICE・IC・EC)・快速(RE))
15 - 16番線:Sバーン
地下ホーム
地下2階、地上からの高さ-15mに位置する。ホームは南北方向に伸びている。
1 - 8番線:長距離線(特急(ICE・IC・EC)・快速(RE))
Uバーン(地下鉄)のホームが併設されている。1面2線の地下駅。

駅の中は、ショッピングモールのようにショップやカフェ、レストランが集まっていてとても便利だ。
ドイツは日曜祝日は街中のデパートやスーパーが閉まるため買い物ができないが「ベルリン中央駅」にあるテナントの商店は日曜日も営業しているため、週末でもショッピングを楽しむことができる。

駅の出入り口は2か所。
南側のワシントン広場(Washingtonplatz ワシントンプラッツ)。
北側のヨーロッパ広場(Europaplatz オイローパプラッツ)。

長距離列車の出発駅はベルリン中央駅 (Berlin Hbf)です。

高架に6線、地下に8線あり,U-Bahnが発着する地下ホームもある。

市内の交通機関

ベルリン市内には、日本のJR・私鉄の様な近郊鉄道(S-Bahnバーン)、地下鉄(U-Bahnバーン)、路面電車(トラム)、市バスが運行されている。
乗車券は、Sバーン、Uバーン、トラム、バスの全てに共通で使える。旅行者には1日乗車券が便利だ。

Uバーン、Sバーン、路線図

乗車券券売機の手順

自動券売機は、UバーンとSバーンの駅にはたいてい設置されている。
①券売機のどこかに英国の国旗マークがあればそこをタッチすると英語表記になる。
②路線図を見て、駅の番号を入力する
③乗車券の種類を選ぶ。
④人数を入力する。
⑤料金が表示されたら、現金(ユーロ)またはクレジットカードを入れる。
紙幣を受け付けない券売機もある。あらかじめコインを準備しておこう。
⑥乗車券(おつりがある場合はつり銭)が出てくる。

バスはドライバーから、トラムは車内の券売機で購入できる。

チケットの種類

ベルリン市内の交通機関はすべてBVGの運営下にあるので、チケットは共通である。
ベルリン市内はのZoneA, B, Cの3つからなり、これらの交通機関は一部バスを除き運賃が共通化されている。
チケットの種類には、1回券、1日券、4回回数券、短距離券などがある。その他にも観光客向けに公共交通機関乗り放題と美術館などの割引特典つきのベルリンウェルカムカード Berlin Wellcome Card、ベルリンシティーツアーカード Berlin CityTourCardもあるが、若干高額なので、長期滞在する向きにはいいが、2~3日では割高になる。

料金はAB、BC、ABCとゾーンによって3種類に分かれている。
ベルリン中心地はABゾーンなので基本的にはABチケットでいいが、近郊のポツダムはCゾーンになる。

1回券 Einzelfahrkarte
打刻から2時間有効で、Zone AB 、Zone BC、Zone ABC がある。
1日券(Tageskarte)は翌午前3時まで乗り放題。3回乗れば元が取れるので1日観光するときは得だ。
Zone AB 、Zone BC、Zone ABC がある。

グループ1日券 Small group day ticket
指定のZone内をループ(大人、子供の区別なく最大5人)で1日に何度も移動できる。
交通機関利用時は同一行動をしなければならない。
Zone AB 、Zone BC、Zone ABC がある。

片道券 4枚セット Single ticket 4-trip-ticket Berlin AB
Zone AB 、Zone BC 、Zone ABC がある。

短区間乗車券 Kurzfahrkarte
UバーンとSバーンの場合3駅先まで、バスとトラムの場合6駅先まで区間限定で有効。

4枚セットの回数券
1枚あたりに換算すると割安になる。

ベルリン ウェルカムカード Berlin Welcome card
刻印時刻から各期間それぞれ指定のゾーンで交通機関が乗り放題になる上、市内の観光名所での割引券がセットになったチケット。
150箇所で25~50%の割引が受けられる。 チケット1枚で大人1人に加え、最大子供(6~14歳) 3人まで有効。
48時間、72時間、4日間、5日間、6日間 がある。

ベルリン シティーツアーカード Berlin City Tour card
刻印時刻から各期間それぞれ指定のゾーンで交通機関が乗り放題になる上、市内の観光名所での割引券がセットになったチケット。
10箇所で最低15%の割引が受けられる。 チケット1枚大人1人に加え、最大子供(6~14歳)3人まで有効。
48時間、72時間 、4日間 、5日間がある

自動改札システム

ドイツの電車の駅には改札がない。
電車(Sバーン、Uバーンとも自動券売機のそばやプラットホームに、日付と時刻を刻印する柱が立っている。切符をここに差し込むとチケットが有効化される。
バスなら運転席のそばにボックスがあるからそこに切符を差し込んで刻印する。
この作業を怠ると、無賃乗車扱いになって、抜き打ちで取り締まりを行っている私服の検札官に罰金を徴取される。旅行者であっても容赦ない。

Sバーン(近郊鉄道)

緑の看板にSマークが目印で中長距離を走る、主に高架方式の電車。
路線によりS1,S5のように表示される。
ベルリンのSバーン(都市高速鉄道)には、以下の16系統が設定されている。
電車はパンタグラフのない第三軌条方式が採用されている。
東京の地下鉄丸ノ内線・銀座線の方式と同じ。
各駅停車で、一部区間でのみ快速運転が行われている。
乗降車時はドアのレバーまたはボタンを押して、ドアを開ける。
東西南北に走る路線と環状線(リングバーン)がある。
東京におけるJR線と私鉄が相互乗り入れをしているように、中心部を走る地下鉄(Uバーン)や環状線を利用し東西南北に枝のように伸びている。
途中で行き先が分かれるもの(S46やS75など)もある。

Uバーン(地下鉄)

青の看板にUマークが目印で、地下鉄ですが、地上を走る区間もある。
現在9路線がある。路線によりU1,U15のように表示される。
路線により大きさが異なる2種類の車両がある。
初期の路線(U1-U4)で採用された小型車体と、新しい路線(U5-U9)で採用された大型車体の2種類の車両がある。
S・Uバーンは週末は24時間運行。
近頃、ヨーロッパの夏はとても暑い日が続くが、地下鉄にはエアコンがない。

トラム(路面電車)

市街地が整備され、トラムは超低床車両に置き換えられている。
運行系統は22、9つの系統では24時間運転も行われており、系統番号の頭に「M」をつけている。
現在運行されている路線の大部分は旧東ベルリン地域内にある。東西分裂時代は西ベルリンでは、市電は1967年までに全線廃止となっていて、バスに代替されていた。
ドイツ統一後は2路線が旧西ベルリンに入っている。

路線図


路線バス

100番と200番のバスは、アレキサンダー広場、からベルリン動物園をつなぎ、ブランデンブルグ門、ティーアガルテン、戦勝記念塔など、ベルリンの主要な観光スポットを回ってくれる路線なので、観光にとっても便利。

定期観光バス Hop-on Hop-off

ベルリンの主要観光地を10分-15分間隔で巡回している2階建てバスの利用がおすすめ。
乗り降り自由で日本語音声ガイド付き。地図を見ながら乗っているといい。
途中観光ポイントで下車して、次のバスに乗ることも自由だ。
チケットは初めに乗るポイントでドライバーから購入できる。
冬期は運転間隔が少し長くなる。

ベルリンの見どころ

ベルリンの壁

1945年2月のヤルタ会談で「3大戦勝国」(米、英、旧ソ連)は、終戦後のドイツの処分の話し合いが行われた。
首都ベルリンが特殊な状況下に置かれること、4大戦勝強国(米、旧ソ連、仏、英)のそれぞれにベルリンの占領地区-つが与えられることに合意した。

4月になるとソ連軍によるベルリン総攻撃が開始され、その最中の4月30日に、ヒトラーは総統官邸の地下壕で自殺した。
5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、ベルリンの戦いは終わった。
5月8日、ドイツ軍は正式に連合国に対して無条件降伏し、第二次世界大戦の欧州戦線における終戦がなされた。
そしてドイツはアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソビエト連邦の4ヶ国によって分割占領され、更に首都ベルリン市内も4ヶ国で分割された。
しかしアメリカおよび西側諸国とソ連がイデオロギーや勢力圏をめぐって対立を深め、やがて「冷戦」と呼ばれる対立状態になると、ドイツの占領統治にも大きな影響を与えた。
1948年、米英仏占領地域(トライゾーン)が独自に通貨改革を行うと、対抗したソ連がベルリンの米英仏占領地区へ繋がる陸路を完全に遮断(ベルリン封鎖)。
アメリカはこれに対して食料物資を空輸することで封鎖を崩し、ソ連もすぐに封鎖を解いたが、両者の溝は埋まることはなかった。

冷戦下でドイツは東西陣営に分裂していたが、往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。
1961年8月13日の深夜O時を少しまわった頃、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、その後、30年以上の間、ベルリンを東西に隔てる壁の建設が始まった。
ベルリンの壁は、経済的・政治的に崩壊寸前だったドイツ共和国政府が、自国民が西側への逃亡するのを食い止めるための苦肉の策として作ったものだ。1949年以来、260万人が西側へ逃亡した。
1961年から1989年までベルリン市内に存在した壁である。

全長160kmにも及び、社会主義の海に浮かぶ民主主義の孤島に西ベルリンを変えてしまった。何度も補強・清掃された冷たいコンクリートの壁は(西側では触ったり、絵を描いたりできた)、有刺鉄線、地雷、攻撃犬、逃亡しようとする人間を容赦なく撃ち殺す国境警備兵が配備された見張り塔などによって、ますます強固なものになっていった。
 逃亡を試みた5000人以上のうち、成功したのは約1600人だけだった。多くの人が捕らえられ、191人が殺された。

冷戦の象徴である壁は、28年もの間、ベルリン市民と全世界の人々を恐怖に陥れた。壁の崩壊の序曲が始まったのは1989年初頭で、何千人もの旧東ドイツ国民がハンガリー経由で逃亡したのと時を同じくして、国内ではホーネッカー政権に対する計画的でさらに大掛かりな抗議運動が起こった。1989年11月9日、ついに旧東ドイツ政府は力つきて倒れ、喝采とシャンパンと花火と共に壁も崩壊した。
記念の品を求める人たちが壁の小片をたくさん持ち帰り、ブロックごとの壊れた壁が世界中の博物館に展示されもした。ただ、いつのまにか無用の長物としてリサイクルされて道路建設に使われた部分が大部分だった。
 壁は現在1.5kmしか残っていないが、ベルリンのさまざまな地区、記念の地、博物館、看板などで、この恐ろしくも重要なドイツ史の一ページを回顧し祝っている。

イーストサイド・ギャラリー East Side Gallery

イーストサイド・ギャラリーには、現存するベルリンの壁で最長の部分が非常に良い保存状態で残されている。フリードリヒスハイン地区のミューレン通りに並行して、1300mの区画が野外ギャラリーになっていて、1990年に世界各国の21ヵ国の118人のアーティストによる絵画を見ることができる。 一部は2000年に改修された。
Muhlenstrase 3-100,
Warschauer Str.駅から徒歩10分、またはOstbahnhof、Schlesisches Tor下車すぐ

ベルリンの壁資料館 Berliner Mauer Dokumentationszentrum

小さいがハイテク技術を駆使したベルリンの壁資料館 Bernauer Strasse(無料 水~日10:00~17:00)では、1961年8月13日に通じる出来事や、壁の建設の初期の記録が展示されている。記録文書や写真の展示、目撃者の証言やスピーチを聞けるリスニング・ステーションなどがある。
タワーに上ると、通りの向かいにある記念碑や、ベルリンの壁跡の無人地帯で行われるアーティストの公演が見える。資料館へはベルナウアー通りBernauer Strasse行きのU8に乗ろう。ベルナウアー通り沿いを東に少し歩くと、リコンシリエイション・チャペルReconciliation Chapel (水~日10:00~17:00)がある。記念の地でもあるが、シンプルで、光り輝くデザインの建物にも注目したい。

ベルリンの壁犠牲者記念碑 Wall Victims Memorial

ドイツ連邦議会の南、シャイデマン通りの東端にあるこの記念碑は、壁を登ろうとして命を落とした191人の悲しい記念碑である。最後の犠牲者が出たのは、壁が崩壊するわずか9ヵ月前だった。
最後の犠牲者、ギュンター・リトゥフィン記念碑 Gunter Litfinが立つ。


ミッテ地区 (Mitte)

ベルリン発祥の地であり、歴史上、常に市政、文化、商業の中心となってきた。
人気の見どころ、博物館、エンターテイメント、ホテルが集中しており、ベルリンを訪れた旅行者がほとんどの時間をここで過ごす。

ブランデンブルク門 Brandenburger Tor

ベルリンのシンボルであるこの輝かしい門は、30年近くにわたって都市の分割の象徴となっていた。
門はポツダム広場に向かって南北方向に伸びる「壁」の一部を形成していたのである。
ここから西側には6月17日通りStrasse des 17.Juniと戦勝記念塔Siegessaule、東側にはウンター・デン・リンデン通りを遠望できる。
ブランデンブルク門の歴史は18世紀に始まり、ベルリンに18ある街の門の中でも一番美しい門だ。
門に組み込まれた六つのドーリス式の柱が通路を五つに仕切り、古代様式の柱頭を支えている。この門は1789年、カール・ゴットバルト・ラングハンスCarl Gotthard Langhansがパルテノンの列柱門にならって造り、高さ26mの門の上には、ゴットフリート・シヤードウGottfried Schadow作の有名な勝利の女神ヴィクトリアが乗ったカドリーガQuadriga (古代ギリシア・ローマの4頭立て2輪馬車、1793年)を戴いている。
勝利の女神カドリ一ガはナポレオンにより一時パリに持ち去られたが、1814年再びベルリンに戻された。
しかし、第2次世界大戦では爆撃の犠牲となった。石膏模型が残っていたので、1958年、当時としては珍しく東西両陣営が協力して女神をもとの位置に戻した。
ブランデンブルク門の旧西ベルリン側は3月18日広場、東ベルリンだった側はパリザー広場となっており、800mにも及ぶ広いウンター・デン・リンデン通りがはじまる。
広場の南側には由緒あるホテルのーつホテル・アドロン Hotel Adlonがある。
門の南には、2003年8月に建設が始まったヨーロッパのユダヤ人犠牲者の慰霊碑(ホロコースト記念碑がある.
Sバーン、UバーンBrandenburger Tor駅

3月18日広場 Platz des 18 Marz

ブランデンブルク門の旧西ベルリン側にある広場。
3月18日広場はドイツの「3月革命」を記念することから名付けられた広場で、大きな円弧上の形をしている。

パリザー広場 Pariser Platz

ブランデンブルク門の旧東ベルリン側の前に広がる広場。
パリザー広場には馬のオブジェが多数展示されており、多くの観光客が訪れている。
夜にはライトアップされるので昼とはまた違う雰囲気を味わうことができる。

ヨーロッパのユダヤ人犠牲者の慰霊碑 Dankmalfurdie ermordeten Juden Europas
(ホロコースト記念碑 Holocaust Memorial)

ユダヤ人への虐殺の歴史を忘れないようにと2005年に造られた。
ブランデンブルグ門の南にあるコンクリート製の石碑群。市民の目につく場所に造られている。大きな石の杭がぎっしり置かれたようなところ。
ニューヨークの建築家ピーター・アイゼンマンの作品で、高さが違うコンクリートの柱が格子状に立ち並んでいる。
設計者はここを訪れた人々それぞれが実際に歩き、何かを感じる場所として設計されており特定の意味を持たせなかった。
2711個ある灰色のブロックは何を語り掛けるか。
高さ1m~2mあるブロックが狭い通路に置かれている。一人がすれ違うのがやっと。
建てる時も賛否両論あったが、ここに来る人達は興味深いのは多種多様な解釈があることである。
この記念碑がドイツ人が責任をもって歴史と向き合う意識の表れである。
当時起こったことに対して責任を負うということが国民のアイデンティティの一部になったという。ドイツ人の自らの理解の象徴なのだという。
歩き進むうちに周囲をコンクリート碑に囲まれると、自分だけの世界で怖いような、落ち着くような、不思議な空間である。
重要なことは、ここに至るまで何十年もかかったことである。最初の数十年、この歴史についてあまり語られていなかった。また、向き合うには非常な困難を伴った。
今日でもそう簡単なことではないが、根本的に取り組むことが大切なのだという。
Sバーン、UバーンBrandenburger Tor駅から徒歩5分

シンティ・ロマの記念碑 Sinti und Roma Denkmal

ドイツ中心部のブランデンブルク門近くにある。
ナチス時代にユダヤ人の虐殺は世界的に有名だが、ユダヤ人以外に少数民族であるシンティやロマに対しても同様のことが行われ、アウシュヴィッツ送りにされていた。
約50万人にも及ぶ両民族の人々の哀悼の意味を込め、イスラエルの彫刻家であるダニ・カラヴァンによって造られた。
直径12メートルの円形の池の中央には三角形の石のプレートが置かれ、その上に一輪の花が置かれている。それが枯れると、石が下がって、新しい花に置き換えられる仕組みになっているという。強制収容所で当時、囚人の服に縫い付けられたバッジをモチーフにしている。
ダニ・カラヴァンによると、この花は「生、哀悼、記憶の象徴」とのことだという。
池の淵には、ロマの出自を持つ詩人サンティーノ・スピネッリの「アウシュヴィッツ」が、英語、ドイツ語、ロマ語で刻まれている。
Simsonweg / Scheidemannstr.
Sバーン、UバーンBrandenburger Tor駅
www.stiftung-denkmal.de

ライヒスターク(連邦議会議事堂・旧帝国国会議事堂) Reichstag

1999年の再オープン以来、巨大な国会議事堂はドイツ連邦議会の議事堂としての役割を回復した。
その一方で、英国人建築家ノーマン・フォスターのデザインしたガラス張りのドーム。
国会議事堂だが一般の人も事前予約をすれば入場できる。
入場料は無料で予約の証明(メールをプリント)とパスポートを提示して入場する。
エレベーターに乗り、屋上のガラス張りのドームの中のらせん状のスロープを上った景色はベルリン滞在のなかでも一番のハイライトになる。街全体を見渡せる眺望と、ドームの中心にある鏡張りの逆円錐のクローズアップには圧倒されてしまう。
政治の透明さを表現し、大衆を迎えるように設計された議事堂には、再オープンの年に300万人以上の見学者が訪れた。

国会議事堂は、ドイツの歴史で重要な出来事の主たる舞台となってきた。
1871年の帝政ドイツ統一から20年以上もたった1894年にようやく完成した。
第一次世界大戦後、1918年11月、まさにこの場で、ホーエンツォレルン王朝の終焉とドイツ共和国の建国が宣言されたのだった。
 1933年2月27日夜、議事堂は放火され、焼け落ちた。オランダ人が犯人とされ、死刑を宣告されたが、ヒトラー率いる突撃隊員が真犯人であった可能性が高い。
これがヒトラーに共産主義を糾弾させ、権力を握らせるきっかけを与えた。
その後、あらゆる場面でナチス政権はこの国会放火事件を引き合いに出し、反体制派の弾圧の口実に使った。
 1945年4月、ソ連軍がベルリンへ進攻してくると、議事堂は要塞として使われた。その頑丈な壁は重火器以外のあらゆる攻撃に耐えたが、5月2日、ついに突撃された。
ぽっかりと口を開けた議事堂の屋根から突き出たソ連の国旗の写真は、第2次世界大戦の記録写真の中でも最も忘れがたい1枚だ。
 戦後、荒廃した議事堂の前では様々なデモが行われた。 1948年、ソ連によるベルリン封鎖が始まると、多くの人々がベルリン市長エルンスト・ロイターの演説を聞きに集まっだ。自由世界の人々に向けて、彼は力強く訴えたのである。
「この町を見よ。そしてこの町とその住民を見捨ててはならないことを分かってほしい!」ベルリンは見捨てられなかった。だが、1961年に議事堂のすぐ東側に壁ができると、この大建造物は市の中心から切り離されてしまった。 1970年代、議事堂は再び使えるようになったが、ソ連が圧力をかけ、ここで西ドイツの議会を開けないようにした。それでも「ドイツ史への問いかけ」と題する展示が行われ、西ドイツの学生が必ず見学に訪れる場所となった。
ドーム部分以外の修復が完成したのは1972年。1990年10月2日の深夜、この場所でドイツ再統一が成立。
統一が実現しても、誰もがベルリンヘの首都移転と議事堂の再開を望んだわけではなかった。くすんだ色の、人を寄せつけない荘重な建物はドイツ史の暗黒面を象徴しているようだった。
また1995年の夏には、ブルガリア生まれのアーティストのクリストとその妻ジャンヌ・クロードが、2週間にわたって銀色のビニールシートで議事堂をすっぽりと包んだ作品「議事堂を包む」を制作すると、議事堂に対する人々の見方は一変した。
その後、まもなくノーマン・フォスターが設計にとりかかった。
ドイツの国会議事堂で、建物内へ入場するには、予約とパスポートが必要となる。
予約は、インターネットまたは議事堂前にあるチケットセンターで行う。
無料でイヤホンガイドを借りることができる。
人気が高いので、行列をつくるのがいやなら朝早く訪れたい。
Platz der Republik 1
UバーンBrandenburger Tor駅から徒歩5分
市営バス:100系統バス停「Reichstag/Bundestag」下車

ソビエト戦勝記念碑 Sowjetissches Ehrenmal

ブランデンブルク門の数百メートル西、ティアガルテンの真ん中を通る6月17日通りにある。
この碑は、ヒトラーの総統大本営に使われていた赤褐色の大理石でできている。並木の両側に、1945年4月にベルリンに最初に進攻したT34型戦車2台とソ連軍兵士の彫像が並ぶ。
第二次世界大戦のドイツ降伏直前にベルリンに行軍したソ連赤軍を追悼するために建てられた記念碑。
ベルリン陥落までに、2万人以上のソビエト兵が命を落とした。
1989年にベルリンの壁が崩壊するまで、記念碑は西ベルリン内の飛び地のような存在で、冷戦時代は東ベルリンから派遣されたソ連の兵士が2時間交代で見張っていた。

ベーベル広場 Bebelplatz

ナチスによってドイツ精神に反するとされたユダヤの書物2万冊以上の数の書籍が焼き払われた焚書事件が起こった場所である。
この事件を悼んでミーヒャ・ウルマンが制作した、本のない書棚が並ぶ地下記念碑がある。記念碑には詩人ハインリッヒ・ハイネの「本を焼くものは、人間をも焼くことになる」という意味の言葉が描かれている。
広場の地面に穴を掘り、焼かれた冊数の本が収納できる空っぽの本棚がガラス越しに見えるようになっている。

旧国立図書館Alte Staatsbibliothek

ベルリンの人々にはシュタービ(Stabi)の愛称で親しまれている。
また、「コモーデKommode(収納たんす)」と呼ばれている。
ブランデンブルク門の東から約1.5km続いているウンター・デン・リンデン沿いにある。
1661年にプロイセン公フリードリヒ・ヴィルヘルムによって設立された。ウィーン・バロック様式建築。
1701年にベルリン王立図書館(Konigliche Bibliothek zu Berlin)、1918年にプロイセン国立図書館(Preussische Staatsbibliothek)にそれぞれ改称された。
第二次大戦後,東ベルリンの旧館はドイツ国立図書館(Deutsche Staatsbibliothek)となり,西ベルリンには,大戦中分散疎開していた蔵書の一部も加えて,連邦・州が共同出資するプロイセン文化財団によって運営される国立図書館(Staatsbibliothek)が設立された.
ドイツ再統一後,1992年に両館は統合され,プロイセン文化財団が経営するベルリン国立図書館となった.
1,000万冊以上の蔵書のほか,多数の楽譜,地図,絵画などを所蔵する.
ベートベンの交響曲第9番の楽譜もここに保管されている。この自筆譜資料は2001年にユネスコの「ユネスコ記憶遺産」リストに登録されている。

ベルリン国立オペラ座 Staatsoper Unter den Linden

1740年から1743年にかけて、クノーベルスドルフKnobelsdorffの設計でフリードリヒ大王広場に建てられたが、1843年に火災により崩壊。
建築家カール・フェルティナンドラングハンス Carl Ferdinand Langhansが、もとのオペラ座に準拠して再建した。
第二次世界大戦で2回の爆撃を受けて完全に破壊された。
1955年に再建されたが、1961年、ベルリンの壁が築かれると、東ベルリンに属するこの歌劇場は西側世界からは隔絶されていた。
東西ドイツの再統一後は再興が進められた。
1992年、アルゼンチン生まれのイスラエル人指揮者・ピアニストのバレンボイムが音楽監督に指名された。
2010年からは、老朽化した建物を修復する為に大改修工事が行われ、その間はビスマルク通りにあるシラー劇場を使って公演が続けられた。工事は当初3年間の予定であったが、大幅に遅れて2017年の秋にリニューアルオープンしたばかりの新しい建物である。
Uバーン Franzosische Strase駅、

フンボルト大学ベルリン Humboldt Universitat

フンボルト大学(Humboldt-Universitat)
元々は、フリードリヒ大王の弟ハインリヒ王子のためにJ.バウマン(父)が1753年に建てた宮殿。
1810年に大学校舎となった。大学の入口には創立者であるヴィルヘルム・フォン・フンボルトの像が立っている。ウンター・デン・リンデン通り沿いの中央には、クリスティアン・ダニエル・ラウホChristian Daniel Rauchによるフリードリヒ大王の有名な騎馬像がある。
複数のキャンパスをベルリンに構えており、観光客であっても敷地内に入ることができる。
過去の教職員の名簿には、アルベルト・アインシュタインやグリム兄弟の名もある。
UバーンStadtmitte駅から徒歩10分

ジャンダルメン広場 Gendarmenmarkt

ベルリンで最も美しい広場の一つとされる。
広場の名前は、かつてこの場所に厩舎を構えていた、フリードリヒ・ヴィルヘルムー世の近衛騎兵隊Gendarmに由来している。
1821年にシンケルが建てたコンツェルトハウスをはさんで、南にはドイツドーム(ドイツ大聖堂)、北にはフランスドーム(フランス大聖堂)の三つの大きな建物がある。両聖堂とも18世紀初頭の建築で、フリードリヒ大王の治下、カール・ゴンタルトKarl Gontardによって美しい装飾が施された。
広場には美しい乙女の像も配されている。
Uバーン Stadtmitte駅から徒歩5分

コンツェルトハウス Konzerthaus Berlin

ベルリンで最も美しいといわれるジャンダルメン・マルクトにあるコンサート会場
1818年から1821年にかけてカルル・フリードリッヒ・シンケルの設計に基づき建築された古典的建築。
この建物は第二次世界大戦によって爆撃を受けたが、1984年に3つのホールを伴って再びオープンした。
ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の演奏をはじめ、毎年500以上のイベントがここで開催されている。
Gendarmenmarkt,
Uバーン6号線Franzosische Str.駅から徒歩5分
https://www.konzerthaus.de

ユグノー博物館 Hugenottenmuseum

ジャンダルメンマルクト広場に建つフランスドームのタワー内にある。
1685年10月、フランス国王ルイ16世は信仰の自由を撤廃した。これを機にユグノー教徒と呼ばれるフランスの新教徒の多くが、国を去ることを決意をする。
ベルリン・ブランデンブルクの大選定候フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ユグノー教徒の受け入れを決めたのである。約30万人の難民のうち、この地域に逃れて来たユグノー教徒は約2万人に上り、うち5500人はベルリンに定住した。フランスドームはこのときに建てられたものである。
タワー内のユグノー博物館にはフランスのユグノー教徒の当時のドイツへもたらした文化的影響力が記録されている。
UバーンFranzosische Str. またはStadmitteから徒歩約5分

フリードリヒスヴェルダー教会 Friedrichswerdersche Kirche

ヴェルダー通りWerderstrasseにある煉瓦造りの教会。
建築家カール・フリードリヒ・シンケルによって、1824年から1830年にかけて建造された。
併設のシンケル博物館Schinkelmuseumには、その比類ない多様な才能によって街を作り上げたこの芸術家の彫刻作品の数々を常時展示している。

ハンブルク駅現代美術館 Hamburger Bahnhof-Museum fur Gegenwart

かつてベルリン~ハンブルク間を結ぶ鉄道のターミナル駅として利用されていた駅舎を博物館に再建したもの。
広々としたスペースに、現代美術を代表するアーティストの作品が展示されている。
ベルリン中央駅Hauptbahnhofの北側、徒歩約5分
UバーンNaturkundemuseum駅から徒歩約10分

マダムタッソー・ベルリン Madame Tussauds Berlin

ロンドンをはじめ、いまや世界各地にある蝋人形館のマダムタッソーのベルリン版。
マダムタッソー・ベルリンは2008年7月に開館した施設で、ドイツの有名人を中心に展示されている。
そのなかでも、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーのろう人形が必見だ。崇拝されるべき人物としての印象を与えないように、第二次世界大戦終結の直前に地下壕で苦悩するヒトラーを再現している。
ほかに、ドイツのアンゲラ・メルケル首相、経済学者のカール・マルクス、歌手・女優のマレーネ・ディートリッヒなどのろう人形が多数公開されている。
Sバーン、UバーンBrandenburger Tor 駅
ttps://www.madametussauds.com/berlin/de/

アレクサンダー広場 Alexanderplatz

この広場は、旧東ベルリンの商業中心地であった。今は東部ベルリンの公共交通と大都会生活の中心である。
この広場は、1805年ベルリンを訪問したロシア皇帝アレクサンダー1世に因んで名付けられた。ベルリンっ子は略して「アレックスAlex」と呼ぶ。
アルフレート・デーブリーンAlfred Doblin (1878~1957)の小説『ベルリン・アレクサンダー広場 Berlin,Alexanderplatz』(1929年)によって世界的に有名になった。
「国際都市の震える心」と表現した貧困地区だった頃の面影は現在はない。幾度となく改修され、現在の社会主義的な外観は196O年代に完成した。
1989年11月4日、約70万人がこの広場に集まり、旧東ドイツ政権に対する抗議集会を開いた。大衆は声高に、そして平和的に抗議を続け、5日後にベルリンの壁が取り壊された。
終日、多くのベルリン住民、観光客で賑わっている。この広場で注目されるのがウーラニアー世界時計Urania Weltzeituhrだ。この世界時計にはさまざまな都市が明記されている。東ドイツ時代にできたもので、東京の上には北朝鮮の首都平壌が記されている。
広場の一角に、高さ365mのテレビ塔がそびえる。テレビ塔の陰にひっそりと隠れているのが、聖母マリア教会(マリエン教会)Marienkirche だ。ベルリンで2番目に古い教会で、1270年に建てられた。
広場の東にある教師の家(Haus des Lehrers)と呼ばれた建物は1960年代に建てられた。社会リアリズム派のモザイク壁画が今もマルクス主義を讃えている。
Sバーン、UバーンAlexander Platz駅

テレビ塔 Berliner Fernsehturm

高さ365メートルのテレビ塔は1969年に東ドイツにより完成。
アンテナの真下に銀色に光る球体があるが、ここに太陽の光が当たると、巨大な光の十字架のように輝くことから、「教皇の仕返し」というあだ名がついた。この現象が、無神論者の旧東ドイツの幹部たちに恐怖を与えたという。西ベルリンの住民たちはこれを「教皇の報復」と名づけた。
天気が良く、行列がそれほど長くなければ、料金を払ってエレベーターで高さ204mのガラス張りの展望台まで行く価値はある。
テレビ塔頂上の回転カフェと展望台からは、市街の見晴らしがよい。
展望台の1つ上のフロアにはレストランがある。
Uバーン、SバーンAlexander Platz駅

聖母マリア教会(マリエン教会)Marienkirche

ベルリンで2番目に古い教会で、1270年に建てられたゴシック様式の教会。
アンドレーアス・シュリューター作のバロック様式の説教墻と塔の「死の舞踏Totentanz」のフレスコ壁画が見どころ。
森鴎外がベルリンの留学経験を元に書いた小説「舞姫」にも登場している。小説では、主人公の太田豊太郎と、踊り子エリスの出会いの場所として描かれている。
近くのネプチューンの噴水Neptunbrunnen (1891年)はラインボルト・ベーガスの作品。女性の像はライン川、エルベ川、オーデル川、ヴァイクセル川の象徴だ。
Sバーン、UバーンAlexanderplatz駅から徒歩5分

赤の市庁舍 Rotes Rathaus

アレキサンダー広場の南にある巨大な建物で、1861年から1869年にかけて煉瓦だけで造られた建てられた。透かし彫りを施した高さ74メートルの塔がそびえている。
「赤い市庁舎」の名は政治に由来するのではなく、赤レンガの外壁から名づけられた。
ここには、とても控えめなマルクスとエングルスのブロンズ像がある。
現在も市庁舎として使われている。
Rathausstrase 15,
UバーンAlexanderplatz駅から徒歩5分

ニコライ地区 Nikolaiviertel

市庁舎とシュプレー川、市庁舎通りRathausstrasseとミューレンダムMuhlendammの間の方形地区は、ニコライ地区と言い、歴史的に復元された家々、石畳の歩行者専用小路、飲食店などが、都会のただ中にありながら小都市風の居心地のよさを漂わせている。建物が東ドイツで一般的なプレハブ工法で建てられていることは、一見しただけでは分からない。

二コライ教会 Nikolaikirche

ベルリン最古の教会で新ゴシック様式の二つの塔の円蓋が、この地区を見下ろしている。もとになった後期ロマネスク様式のバシリカは、ゴシック様式の内陣(1379年)をまだ残しているが、1380年の市の大火のあと現在の煉瓦造りゴシックのホール教会に建て直された。教会内部では、市の誕生から三十年戦争末までのベルリンの歴史を紹介する辺境博物館の常設展示standige Aussteilung des Markischen Museumsが行われている(1440年当時のベルリンおよびケルンColinの立体地図、武器、装身具、家財道具、印刷物、特権書簡など)。
教会内装では、木製の彩色彫像、墓標板、教会の鐘(15、16世紀)などが見もの。

DDR博物館 DDR Museum

旧東ドイツ(DDR)の主に日常生活をテーマごとに展示した博物館。
資本主義国とは異なる違う社会を見ることができる。
「東ドイツ」と聞くと暗いイメージがあるが、この博物館はバランスよく東ドイツを紹介している。旧東ドイツ製の国産車トラバントに触れることもできる。
Kari Liebknecht Strasse 1,
Sバーンハッケシャー・マルクト Hackescher Markt 駅から徒歩約10分

1989年11月9日広場(ボルンホルマー通りの橋) Esplanade du 9 Novembre 1989

28年間の閉鎖期間を経て、東西ベルリンの門が最初に開かれた場所。
国境通過地点だったボルンホルマー通りの鉄橋のある場所に、何千人もの市民が押し寄せた。人々の圧力に押されて、東ドイツは23時30分、ついに国境遮断機を開放。
橋を渡って数万人の人が西ベルリンへ雪崩れ込んだ。
これにより、ベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツの統一への動きが加速していった。

聖ヘドヴィヒ大教会 St. Hedwigs-Kathedrale

ウンターデンリンデンからベーベル広場に行くと左手奥に見える建物。
J.L.レゲイLegeayとJ.バウマンBoumann(父)の両建築家が、オペラ座の後ろにあるこのカトリック教会を設計した。ローマのパンテオンに強く則っている。外観からは想像できないほどのモダンな内装となっている。
ベルリンでは珍しいカトリックの教会である。

ノイエ・ヴァッヘ(新衛兵所)Neue Wache

均整のとれたこの小さな建物は、1816年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が、カール・フリードリヒ・シンケルKarl Friedrich Schinkelに設計させた。
巨大な2本の支柱の間にドーリス式寺院を置いたように見える。
1966年にファシズムと軍国主義の犠牲者の為の記念建造物となった。
ドイツ国内でも主たる記念物であるこの建物は、1993年以降は戦争や独裁による犠牲者たちの思い出に捧げられている。ドイツ連邦政府の戦没者に対する中央追悼施設として「国民哀悼の日」の式典会場になっている。 内部には、ケーテ・コルヴィッツKathe Kollwitzによる巨大な彫刻作品「母と死せる子」がある。

旧兵器庫 Zeughaus(ドイツ歴史博物館 Deutsches Historisches Museum

1695年から1706年にかけて造られたベルリンで最も重要なバロック建築。
中庭にはアンドレーアス・シュリューターAndreas Schlute「作の「死にゆく戦士の顔Masken sterbender Krieger」がある。
また、この建物には、ドイツ歴史博物館Deutsche Historische Museumがおかれている。年代順にドイツの政治から生活まで知ることができる。

IMペイ建築ペイ館IM Pei Bau(ドイツ歴史博物館別館)
Erweiterungsbau des Deutsches Historisches Museum (DHM)

イオ・ミン・ペイ(Ieoh Ming Pei、1917年4月26日 - 2019年5月16日)は、アメリカ合衆国の中国・広州生まれ、マサチューセッツ工科大学建築学科卒,ハーバード大学デザイン大学院修士課程修了という中国系アメリカ人建築家。I・M・ペイと表記されることが多い。漢名は貝 聿銘(Bei Yuming)。
ルーヴル美術館のガラスピラミッドを設計した建築家として広く知られる。
ベルリンの斬新なデザインの「ドイツ歴史博物館別館」は、ドイツ歴史博物館の奥に建設された。この新館は2004年竣工、2006年6月2日、2000年にわたるドイツの歴史をテー マとする常設展のオープンした.
このペイ館は現代建築の表現そのものであり、新しいベルリンの象徴でもある。
2階にわたる8000平方メートルの展示面積に回廊状の広い道を通ることで年代順に見せている。
上の階には現在ドイツとなっている部分のケルトとローマの歴史から、第一次世界大戦までの歴史が展示され、下にはほぼ同じ面積にドイツの歴史にとって特に重要な 20 世紀が展示されている。合わせて8000 点以上の資料が展示されている。


博物館島 Museumsinsel

南北に流れるシュプレー川の中州にある島。北半分が「博物館島」と呼ばれ、5つの美術館および博物館が集まっている。
1999年世界遺産に登録されている。
シュプレー川とクプフアーグラーベンの間にある世界的に有名な博物館島には、考古学上の発掘物から19世紀の美術品にいたるまでの展示品を納めている博物館が集合している。シュプレー川の中州に浮かぶ1平方キロメートルにも満たない小さな島が、1830年から1930年までの100年間のうちに芸術の神殿となり、そこでは実に6千年もの歴史を5つの博物館で見ることが出来る。博物館島は1830年にシンケルによって設計された旧博物館の完成により始まった。
博物館島の最初の設計図は、シンケルのもとで学んでいたフリードリヒ・アウグスト・シュテューラーによリ1841年に描かれ、それを基に1859年に新博物館が、そして1876年に旧ナショナルギャラリーが完成した。 1904年には、カイザー・フリードリヒ博物館(現在ではボーデ博物館として知られる)、1930年にペルガモン博物館が開館すると、博物館島の全ての建築作業が終了した。
第二次世界大戦中、これらの博物館の70%が破壊されてしまった。戦争による被害と冷戦の東西分割の影響を受けた博物館の修復は、現在も行われている。2001年の旧ナショナルギャラリー、2006年のボーデ博物館のリニューアルオープンは、博物館全体の再開発における道標となった。
第2次世界大戦中、戦災を避けるため、コレクションは各地に散ってしまった。また施設の一部は空襲を受けた。
終戦後のベルリン分割によってソ連占領地域となり、東ドイツ政権発足に伴い東ドイツの国立博物館となった。西ドイツ側にあった蒐集品はシャルロッテンブルク美術館などに収蔵された。
この島にある建物の多くが、第2次世界大戦と共産政権下のずさんな管理によって深刻な被害を受けた。
1990年のドイツ統一により復興が進み、現在ベルリンでは旧両ドイツの美術館再編および改装工事が行われており、博物館島に収蔵されていたコレクションの一部である18世紀以前の絵画や20世紀美術は、ティーアガルテン地区の新ナショナルギャラリーや新たに誕生した絵画館へ移されている。一方、19世紀絵画は博物館島の旧国立美術館のコレクションに統合された。 島には6つ目の博物館の建設がされている。
将来的には5つの博物館が地下道で結ばれ、完成後には世界最大の博物館複合施設となる。
これら5つの博物館のコレクションをすべて合わせると、パリのルーブルやロンドンの大英博物館を上回るものとなる。
博物館島再建は今も建設工事が進められている。
新型コロナウイルスの影響で、展示スペースや見学ルートの変更を余儀なくされるため、美術館によっては閉館になっているところもある。

ペルガモン博物館 Pergamon Museum

ベルリンに滞在中、1ヵ所の博物館にしか行けないとしたら、迷わずペルガモン博物館に行くべきだ。
5館の中で最も新しく1930年に開館。
紀元前2世紀の大祭壇を復元して収める目的で1909~30年に建設された。
神殿を思わせるコの字型の建物に、巨大な古代遺跡が展示されている規模の大きな博物館である。
古代ローマおよび古代オリエント美術を中心に、古代美術および近世までの中東美術を扱う。小アジア(紀元前165年、現在のトルコ)の古代都市ペルガモンから「ペルガモンの大祭壇」を館内に移築したことから、館名の由来にもなっている。
巨大な大理石の廟で、120mの神々が巨人と戦っている様子が彫られている。隣の部屋には、バビロンのイシュタル門やローマ建築の傑作である巨大なミレトスから運ばれた紀元2世紀の市場門Gate of Miletusなど遺跡の発掘品を所蔵および復元展示するほか、近世までの中東工芸および絵画を展示する。
入場料を払うと日本語オーディオアガイドを無料で借りられる。
時間ごとに入場制限されているので事前予約がおすすめ。
http://www.smb.museum/museen-und-einrichtungen/pergamonmuseum/home.html
定休日:月曜日
Hackescher Markt駅から徒歩5分

旧ナショナルギャラリー(旧国立美術館) Alte Nationalgalerie

1876年にシンケルの弟子フリードリヒ・アウグスト・シュテューラーの設計の建物(1867~1876)で、アテネのアクロポリスをイメージして作られている。入口には博物館島の基礎を築いたプロイセン王フリードリッヒ・ウイルヘルム4世(1795-1861)の騎馬像が立つ。3年の歳月と巨費を投じた改修工事を終え、旧国立美術館は19世紀ドイツ美術の殿堂となっている。
ドイツ人画家の作品やフランス印象派の作品を中心に19世紀及び20世紀前半3分の1の絵画一彫刻作品を所蔵している。
強烈で写実的なフィリップ・オットーリレングの肖像画や、小さな町の暮らしをユーモラスに描いたカール・シュピッツヴェークの作品。全く対照的に、重工業が急速に発達するドイツを称えたアドルフ・メンツェルの『鉄圧延工場』もある。
ベルリン分離派Berliner Sezessionの指導者マックス・リーバーマンMax Liebermannは、肖像画家として、また貧しい人々の生活の観察者として名を馳せた(「亜麻紡績女工Die Flachsspinnerinrten」)。同時代のフランス絵画からは、印象派の先駆者たち、バルビゾン派(ルソー、コロー)やギュスターヴ・クールベらの作品が展示されている。コレクションの中でも特に美しいのは、エドゥアール・マネ(「冬の庭でIm Wintergarten」)、クロード・モネ(「サン=ジェルマン・ロークセロワSt-Germain-l'Auxerrois」)、オーギュスト・ルノワール(「夏にEn ete」)、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌといった画家による印象派の絵画である。一方、ドイツ理想主義の潮流は、ハンス・フォン・マレーHans von Marees 、アンゼルム・フォン・フォイアーバッハAnselm von Feuerbach、アルノルト・ベッタリーンArnoldBocklinらの作品によって紹介されている。彫塑ではヨハン・ゴットフリート・シヤードウJohann Gottfried Schadowとクリスティアン・ダニエル・ラウフChristian Daniel Rauchの作品を収集。また、ヒルデブラント、コルベ(「踊り子Die Tanzerin」)、フランス人のロダン、マイヨール、ドガの彫刻作品も注目に値する。

旧博物館 Altes Museum

1870年プロイセン王家が芸術コレクションを収蔵・公開する目的で「王立博物館」として開館したもので、建物は戦争で激しく破壊されたが、1951年から1966年にかけて再建された。現在は古代ギリシャやローマ時代のアンティークコレクションを展示する博物館となっている。
5館のなかで最も古く1830年に建築家カール・フリードリッヒ・シンケルが設計した建物で、中央の玄関正面には長さB7mの円柱が18本の並ぶび、内部建築の頂点は、フレスコ画で飾られた円形ホールがある。
紀元前300年頃にロードス島の無名の彫刻家が彫った「祈る少年」(Der betende Knabe)として名高い像だけは見ておきたい。

新博物館 Neues Museum

戦争の被害が最も大きかった建物で、久しく廃墟になっていたが、2009年10月になって再オープンした。
内部には、古くからの部分と、新しい部分がはっきり区別できる。建物そのものが人々の関心の高いところとなっている。
一部の柱や壁に戦争時の銃弾の跡があえて残されたままにされている。
4階建て総床面積8000平方メートルの館内には、エジプト美術および先史時代の遺物を陳列する。見どころとしては、「王妃ネフェルティティの胸像」。この部屋だけは写真撮影禁止になっている。「ベルリンの黄金帽」はドイツ南部で出土したもので、紀元前10-8世紀ころのもの。高さ75cmの儀式用の帽子。薄い金の上に描かれているのは月の満ち欠けを表す暦である。

ボーデ博物館 Bodemuseum

博物館島の北端に位置し、入口はモンビジュー橋Monbijoubrucke側になる。
Sバーンの高架線路でペルガモン美術館と隔てられたボーデ博物館は、1904年完成の丸いドーム屋根を持つネオ・バロック様式の建物である。
戦前はカイザー・フリードリヒ皇帝博物館と呼ばれていたが、開館当時の館長だったヴィルヘルム・ボーデにちなみ、1956年に現在の名前になった。
7年間の改修工事を経て、2006年10月17日に再開業した。
総面積1万1000平方メートルに66の展示室には彫刻美術とビザンティン美術を主体にしている。
週末は博物館の前で蚤の市が開かれる。
Hackescher Markt駅から徒歩5分

ベルリン大聖堂 Berliner Dom

シュプレー川の中州、博物館島にある大聖堂。
1905年のネオルネサンス様式のベルリン大聖堂だ。
ホーエンツォレルン家の記念教会であり、王室の人々が地下聖堂に埋葬されている。
高さは114mの天井ドームへは270段の階段を登ることができる。ベルリン市内を上から眺めることもできる。
毎日15:00からオルガンの無料演奏会が行われる。
Alexanderplatz駅から徒歩5分


ショイネンフィアテル地区 Scheunenviertel

ショイネンフィアテル(納屋地区)と呼ばれているが、17世紀頃には納屋がたくさん集められていたので、こういう名前になったという。当時の「ベルリン」には、火事を防ぐために市内に納屋を置くことを禁止していたため、市壁のすぐ裏手のこの地区に納屋を立てたのだとか。
18世紀には、フリードリッヒ・ヴィルヘルム 1世が家を持たないユダヤ人に、この場所に住むように命じた。その後、この周辺はユダヤ人地区として発展していき、いまも近隣にはシナゴーグやユダヤ人墓地などがある。

ポツダム広場 Potsdamer Platz

ここはベルリンで最も近未来的な雰囲気を感じさせるエリア。
ショッピングセンターや映画館、レストラン、ブティックなどが充実しており市民が集まるベルリンの中心地。
冷戦時には東西分裂の際に封鎖され、東西に分かれて誰も近づけない無人の広場は、いわば昏睡のような状態に入っていた。
統一後、壁が取り壊され、真っ先に再開発が進められ、世界中の名だたる建築家が参加して、再開発に多くの才能が台頭した。磯崎新、ラファエル・モネオ、リチャード・ロジャース、ポッダム広場を設計したヘルムート・ヤーン、同じく広場の設計を担当したレンゾ・ピアノたちだ。新しく開発された2つの地区には、ベルリン市民にも観光客にも愛される人々で溢れる広場となり、アーバンライフとエンターテイメントの代名詞にもなった。映画館、レストランにショッピングが楽しめる2つの複合施設、ダイムラー・シティDaimlerCityと、ソニーセンターSony Centerは、近代的な高層建築で夜になるとライトアップも楽しめる。
2つの複合施設の魅力は、エンターテイメント的な価値にある。2つのアイマックス・シアターを擁する2つのシネコンのほかに、芸術的なアーセナル・シネマArsenal Cinema、2軒のナイトクラブ、カジノ、中型のミュージカル劇場などがある。 2000年には、シャーロッテンブルク地区で行われていた国際映画祭がここに移ってきた。
ソニーセンターのセントラル・プラザは、テントのようなガラス屋根で覆われていて、ダイムラー・シティの美しい池のわきにある階段は、おしゃべりをしたり、人間観察をしたりするのに絶好のポイントだ。
Sバーン、UバーンPotsdamer Platz駅すぐ

映画博物館 Filmmuseum Berlin

ドイツ映画を通じてマルチメディアの旅を楽しんだり、特殊効果の舞台裏をのぞいたりできる。まず、「カリガリ博士」から、ゆがんだ鏡の中を通るという芝居掛かった演出で始まる。主なテーマは、パイオニアと往年の女優たち。フリッツ・ラングの無声映画「メトロポリス」、レニ・リーフェンシュタールの衝撃的な記録映画「オリンピア」や、第二次世界大戦後の映画作品が展示されている。ただ、一番注目の的は、危険なまでに魅力的な女優マリーネ・ディートリッヒの衣装、装飾品、写真、手紙などのプライベート・コレクションだろう。
 20世紀の抽象芸術、コンセプチュアル・アート、ミニマルアートが好きな人には、ダイムラークライスラー・コンテンポラリーDaimlerChryslerContemporary (Haus Hut)がおすすめ。
ポツダム広場を上から眺めるには、世界最速といわれる高速エレベーターでパノラマ展望台 Panorama Observation Deck (Potsdamer Platz 1)へ。
Potsdamer Strasse 2

ティーアガルテン Tiergarten

ブランデンブルク門の西側に広がる約210ヘクタールにも及ぶ公園。
元々ここはプロイセン王室の狩猟場だった。
造園家ペーター・ヨーゼフ・レンネによって手掛けられており、1953年に東ベルリンで起きた労働者の蜂起を記念して名づけられた6月17日通りStrasse des Juniが、公園内を東西に横断している。その中間には戦勝記念塔が建っている。
現在では、葉が生い茂った木々、きれいに舗装された道、湖、草地などがジョギングやピクニックや散歩に来る人を迎えてくれる。毎日12:00と18:00に、大きなカリヨンJohn-Foster-Dulles-Allee(新首相官邸の真南)から鐘の演奏が聞こえる。
ティアガルテンの南側は、大使館街とも呼ばれており、新しい豪華な大使館がいくつも立ち並んでいる。北欧諸国大使館はスカンジナビアの国々の特徴を組み合わせた建物で、きらきら光るトルコ石の外壁が特徴。メキシコ大使館は、コンクリートとガラス造りの現代的な建物だ。
UバーンBrandenburger Tor駅から徒歩5分

戦勝記念塔 Siegessaule

19世紀半ば1864年、1866年、1870/71年に起きた3つの戦争でのプロイセン軍の勝利を記念し建てられた高さ67mの塔。ティアガルテン公園のロータリーにそびえ立っている。
近隣諸国を次々と打ち破ったプロイセンは1871年ドイツ統一を達成、ここにドイツ帝国が誕生した。
頂上には金色の勝利の女神ヴィクトリア(市民には”金色の女神”と呼ばれている)が輝いている。
285段の階段を登った塔頂からシュプレー川、ハンザ地区、ティーアガルテン、プランテルブルク門、ウンター・デン・リンデン、ベルリン市庁舎などが展望できるが景色はそれなりというところ。
この塔はベルリンのゲイ・コミュニティーのシンボルで(ベルリン最大のゲイ雑誌の名前はこの塔にちなんでいる)、毎年のクリストファー・ストリート・パレードの終着点にもなっている。
公園のこのあたり、特にレーヴェン橋Lowenbruckeの周辺はナンパスポットになっている。

ベルリン・フィルハーモニー Berliner Philharmonie

ハンス・シャルーンHans Scharounによる大胆に左右不均整の建物(1963年)の屋根は、巨大に波打っている。
オーケストラ席はホール中央に位置し、ねじって角度をつけた3つの五角形のフロアが並ぶ2200人を収容する複雑なレイアウトが、まるで別世界にいるような音響効果をもたらしてくれる。
ベルリンのオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地 毎週火曜日、コンサートホールのロビーを利用して、ランチコンサートが開かれている。
先着1600名に限定、週替わりの演奏家が出演している。
毎年12月31日に行われるジルベスターコンサートが行われている。
コンサートのチケットの早くから完売してしまうので、旅行滞在日程が決まったらすぐに確認をしてみるといい。公式ホームページから取ることができる。
また、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は7月~8月下旬に各地の音楽祭に参加しているため、フィルハーモニーでの公演はない。
マタイ教会通り Matthaikirchstrasse。
Sバーン、UバーンPotsdamer Platz駅(ポツダム広場駅)
URL:https://www.berliner-philharmoniker.de/

室内楽ホールKammermusiksaal (1987年)

フィルハーモニーの横にシャルーンとその弟子エドゥガー・ヴィスニエフスキーEdgar Wisniewski によって建てられたテント風の室内楽ホールKammermusiksaal (1988年)は、1150人を収容。

楽器博物館 Musical Instruments Museum

シャルーンとヴィスニェフスキーの設計によるフィルハーモニー増築部分になっている。16世紀以降のヨーロッパの鍵盤楽器、弦楽器、管楽器、打楽器のすぐれたコレクションが収蔵されている。
展示方法が独特だ。土曜日の12:00に実演が行われる。
Tiergartenstrasse 1

ベルヴュー宮殿 Schloss Bellevue

1785年にバウマンによってフリードリヒ大王の末弟にあたるプロイセンのアウグスト・フェルディナンド王子のために建てられたネオルネサンス様式の宮殿で、現在はドイツ大統領官邸となっている。
宮殿の裏手には約20haの公園が広がっていて、西の部分がイギリス様式になっている。

バウハウス資料館 Bauhaus Archive/Museum of Design

ドイツで20世紀初頭に設立された現代建築・設計の基礎を築いた教育機関、「バウハウス学校」(1919~33年)の芸術家たちのために建てられた。創設者のヴァルター・グロピウスが設計した真っ白な建物だ。家具、設計図、模型などのほかに、グロピウス、クレー、カンディンスキーの写真や美術作品などが展示されている。
ラントヴェーア運河 Landwehrkanal沿いにある。
Uバーン Nollendorfplatz駅からバス100、M29、187、106番利用、ルッツゾウプラッツ(Lutzowplatz)下車、徒歩3分

ドイツ抵抗運動記念館 Gedenkstatte Deutscher Widerstand

ドイツ・レジスタンスの記念地は、旧軍司令部の跡地にある。
ナチに対するドイツの抵抗活動が詳しく展示されている。特に、1944年7月20日にシュタウフェンベルク将軍が実行したヒトラー暗殺計画に焦点が当てられている。将軍と共謀者たちは、中庭で処刑された。
毎年7月20日に連邦大統領や首相が出席して追悼式が博物館の中庭で行われている。
Stauffenbergstrasse 13-14。

プレッツェンゼー記念(追悼)の地 Gedenkstatte Plotzensee

ナチスに抵抗した国内外の多数の政治犯が幽閉され処刑されたプレンツェンゼー監獄は、ドイツにおける反ヒトラー抵抗運動の記念慰霊堂となり、一般に公開されている。
1944年7月20日のヒトラー暗殺計画失敗後の弾圧によって、100人を越す人々もここで絞首刑に処せられた。現在もその処刑室を見ることができる。入場無料。
123番バスの同名のバス停から徒歩3分ほど。

新ナショナルギャラリー(新国立美術館)Neue Nationalgallerie

ミース・ファン・デル・ロ-エMies van der Rohe設計による、ガラスと鋼鉄で造られたこの建物(1968年)には、19世紀から21世紀の絵画・彫刻が展示されている。
ヨーロッパのモダン・クラシックの潮流や、60~70年代のアメリカン・アートの重要な作品を含むコレクション。まずは表現主義の先駆者たちが紹介される(ゴーガン、ムンク、ホドラー)。続いてブリュッケBrucke派の画家たち(キルヒナー、シュミット・ロットルフ、ヘッケル、オットー・ミュラー)の作品がある、実に興味深い展示室を見ることができる。
鑑賞を締めくくるのは、ロヴィス・コリント、オスカー・ココシュカ、ヴィルヘルム・レームブルック、エルンスト・バルラッハらの作品群である。
フランスのキュービスムは、ピカソ、ホアン・グリスによって紹介されている。
こうしたモダン・アートの古典としては、ほかにバウハウスBauhausの画家たち(シュレマー、カンディンスキー)、ゲオルゲ・グロス(「社会を支える者たちStutzen der Gesellschaft」)、パウル・クレーPaul Klee (「出航Abfahrt der Schiffe」)、シュールレアリスト、マックス・エルンストMax Ernstの作品がある。同時代の美術コレクションの重点は、グルッペ・ゼロGruppe Zero(ゼロ・グループ)と新写実主義Nouveau Realismeおよびアメリカの絵画。
館内およびテラスに置かれた彫刻作品では、ルノワールの「洗濯女Die Wascherin」、カルダーCalderの「頭と尻尾Kopfe und Schwanze」、ゲーアハルト・マルクスGerhard Marcksの優美な「マヤ像Maja-Statue」が重要。
Potsdamer Strasse 50
Sバーン、UバーンPotsdamer Platz駅から徒歩10分

文化フォーラム Kulturforum 

ティアガルテンの南端にある、美術・博物館とコンサートホールなどの複合施設。
絵画館 Gemaeldegalerieもここにある。13~18世紀のヨーロッパ絵画を集めた美術館。13~16世紀のイタリア絵画、15~16世紀のオランダ絵画。ドイツ古典絵画ではデューラー、クラナッハ、ホルバインなどの作品を所蔵する。
文化フォーラム・チケットKulturforum ticket で、文化フォーラムのすべての美術・ 博物館と、新ナショナルギャラリー、ハンブルク駅現代美術館、装飾美術館、版画美術館、写真ギャラリーなど、すべての主要な建物に入場できる。
Matthaikirchplatz,
Sバーン、UバーンPotsdamer Platz駅から徒歩10分

工芸美術館 Kunstgewerbe museum

マタイ教会広場 Matthaikirchplatzに面している。
建物はロルフ・グートブロートRolf Gutbrod設計。
三つの展示階に分かれ、中世から現代の工業デザインに至る美術工芸品がよ<概観できる。
中世から現代までのデコラティブ・アート(装飾芸術)であふれている。豊富なコレクションは、宝石で覆われた聖骨箱、アールデコ調の陶磁器から、現代的な道具まで多岐にわたる。イスラム、日本、ネイティブアメリカンの要素を取り入れた、カルロ・ブガティ作のとんでもない家具(1885年)にご注目。
廊下のような細い空間に展示されているファッションの歴史は、19世紀から現代までのファッションの流れを辿ることができる。ファッションが当時の社会状況を反映していたこと。コルセットの使用した衣服のように男性が求める姿を形にしたファッションでしたが、女性の社会進出と共に動きやすいものへと変わっていく変遷を紹介している。
Matthaikirchplatz
月曜休館
SバーンPotsdamer Platz駅、UバーンPotsdamer Platz駅

銅版画ギャラリー Kupferstichkabinett (Museum of Prints and Drawings)

マタイ(マティーアス)教会広場から入る。
世界一大きく、世界一素晴らしいグラフィックアートの美術館。
中世から今日に至るまでの約8万点のデッサンと、約52万点の版画のコレクション。これは、世界で最も貴重なコレクションのひとつである。
14世紀からIB世紀にかけての巨匠としては、デューラー、ブリューゲル(父)、レンブラント、ボッティチェルリらの作品が並ぶ。19~20世紀の画家の中からは、ゴヤ、ドーミエ、メンツェル、コルヴィッツ、ピカソらの作品。この資料室では他に中世の写本、細密画、初期活版印刷本(1500年以前のもの)、15~20世紀の絵本、スケッチブック(クノーベルスドルフKnobelsdorff)なども収める。所蔵品の大半は保管庫にあるが、閲覧室で見ることができる。
Matthaikirchplatz 8

新シナゴーグ Neue Synagoge

オラーニェンブルク通りに再建されたベルリンの新シナゴーグの完成は1866年。金色に輝く丸屋根が、往来が激しいオラニエンブルク通り沿いに建っている。
建物はムーア・ビザンチン様式で、席数は3200席。 1866年の開館当時は、ドイツ最大のシナゴーグだった。 その姿は、この一帯で伝統的な暮らしを営むユダヤ人社会の誇りと、高まる社会的地位を反映していた。
完成式典には、ビスマルク率いるプロイセン政府の関係者が出席した。ベルリンのユダヤ人社会に敬意を表し、反ユダヤ人感情を牽制するためだ。
1938年のクリスタルナハ卜事件 Kristallnacht pogroms (水晶の夜事件)でドイツ全土のシナゴーグがナチスの襲撃を受けた。ナチス突撃隊の暴漢たちが教会に火をつけようとするのを、地元の勇気ある警官ヴィルヘルム・クリュツフェルドが襲撃犯を逮捕した。その勇気ある行動を記念した額が飾られている。その後もナチスは冒涜行為を行おうとしたものの、その数年後の1943年にシナゴーグは連合国軍の爆撃を受けるまで教会は破壊をまぬがれた。東ドイツ時代に再建作業が開始され、現在はベルリンのユダヤ人に関する展示がされている。
Oranienburger Strasse 30
土曜とユダヤ教の休日休館
S-Bahn: Oranienburger Strasse

ハッケシャー ホーフ Hackesche Hoefe

ホーフとは建物に囲まれた中庭のことで、ハッケシャーホーフには8つのホーフからなる複合商業施設。
カフェやレストラン、ショップやギャラリーが集まる人気の観光スポットだ。
雑貨店も多く、お土産探しには便利だ。の、信号機で使用されていた人の形をしたキャラクター「アンペルマンAmpelmann」はベルリンのマスコット的存在になっており、どこのショップでも人気だ。
UバーンHackescher Markt駅から徒歩5分


クロイツベルク地区 Kreuzberg

ミッテ地区の南に位置し、ミッテ地区とは正反対の性質を持つ。シュプレー川に面した東端は、自由奔放で雑然とした地区だ。大勢の学生、パンク、ヒッピーなど、統一のずっと前からグランジ的なまったく新しいライフスタイルを求めていた人々を惹きつけてきた。とげとげしさはなくなったが、オラーニエン通りとそのわき道には、今でも味も素っ気もないバーやクラブ、オルタナティブな映画館が軒を連ねている。
また、ベルリンのトルコ人コミュニティーの中心でもあり、トルコ系移民が多い地区。運河沿いにはトルコ風マーケットが並んでいる。
ユダヤ博物館とチェックポイント・チャーリーの2つがこの地区の観光名所である。

チェックポイント・チャーリー Checkpoint Charlie

フリードリヒ通りとツィマー通りZimmerstrasseの交差点にあるチェックポイント・チャーリーは、冷戦時代に東西ベルリンの間を結んでいた唯一の検問所の跡地で、外国人だけが通行を許されていた。
現在ではチェックポイントがあった地点として観光名所になっている。
現在でもチェックポイントの建物が残されていて、当時、そのチェックポイントで働いていた係官に扮した方と一緒に記念写真を撮ったり、スタンプを押してもらったり、人気の観光地になっている。
そばに「あなたは今アメリカの領域を出ようとしている」という看板が見える。
そのチェックポイント・チャーリーの近くにある博物館がチェックポイント・チャーリー博物館である。この博物館は東西ドイツ分断時代、冷戦時代に感するものを展示している博物館で、ベルリンの壁博物館とも呼ばれている。
ベルリンの壁の歴史と恐怖に焦点が当てられている。旧東ドイツの国民たちは、自家製の熱気球やトンネル、車の中の隠し部屋、一人乗りの潜水艦などを作り、西側へ逃亡を試みた。この驚くほどの勇気と工夫の記録には、きわめて強烈なインパクトがある。
Friedrichstrasse 43-45
UバーンKochstrasse駅

ユダヤ博物館 Jewish Museum

ユダヤ博物館へは、近くの旧裁判所(18世紀の建築)から地下通路を通って行く。
ここは9世紀以来、ドイツでユダヤ人かたどった歴史を記録するため、1990年代に設立された。歴史、文化、芸術、科学などの分野に対してドイツ系ユダヤ人がいかに貢献してきたかがよく理解できる。一連の「空白」を通じて、ホロコーストの恐怖が痛々しく表現されている。この空白は文字どおり何もない空間で、人間性や文化や人間そのものの喪失を象徴している。
ポーランド生まれのユダヤ系アメリカ人建築家ダニエル・リーベスキントが設計した傑作で、ユダヤ人の苦難の歴史を比喩的に表現している。
建物の平面図は、星を表現するように鋭い角度でジグザグに曲がっていて、亜鉛で覆われた壁が空にそびえている。窓の代わりに、不揃いの溝が、銀色に輝く建物の表面に刻まれている。ドイツのユダヤ系市民がナチス政権に押し付けられた「ダビデの星」の壊れた姿を表す。
Lindenstrasse 9-14
Uバーン: Hallesches Tor駅

テロのトポグラフィー(恐怖政治の地形)Topographie des terrors

グローピウス建築の隣に通称「アルブレヒト王子ゲレンデPrinz-Albrecht-Gelande」(かつてのアルブレヒト王子通りPrinz-Albrecht-Strasseに因む)と呼ばれる敷地が広かっている。
この場所には1933~45年、ナチスの秘密国家警察(ゲシュタポ)、親衛隊、秘密情報機関の本部、さらに1939年以降は帝国公安局本部が置かれていた。
ゲシュタポ本部、SS中央指令部、SS安全保障機関、1939年以降の帝国防衛軍の本部などだ。
80年代半ば、それまで放置されていたこの土地を作業した際に、上記建物内にあった「専属牢」の基礎壁や地下室の壁が発掘された。これらの壁は、「恐怖政治の地形Topographie des Terrors」の記録として、そのままの形で残されることになった。ゲシュタポが作った牢の炊事場残骸の上には資料館が建てられ、ナチの支配体系、反対派の迫害、ユダヤ人絶滅政策について解説している。
現在はどの建物も残っていないが、ナチス時代の記録を展示したドキュメントセンターとして無料で一般公開されている。ゲシュタポ本部の地下牢の一部が屋外展示場として利用され見学できるようになっている。
市で一番高いクロイツベルクKreuzberg (十字架の丘、66m)にあるヴィクトリア庭園Viktoria-Parkには、対ナポレオン解放戦争を記念するK.F.シンケル設計の国家記念碑が立っている。テラスからは市街が広く見晴らせる。
Niederkirchnerstrasse 8
Sバーン,UバーンPotsdamer Platz駅

ドイツ技術博物館 Deutsches Technikmuseum

ドイツのベルリン(当時は旧西ベルリン)に1982年に設立された博物館。アンハルトAnhaltの古い円形の機関車庫だった建物の中という、まさにうってつけの場所にある。
特に充実しているのが鉄道部門であるが、工業技術の多様な展示品も大きな特徴となっている。
熱狂的な科学ファンが楽しめる参加型の展示が数多い。
来客者参加型の展示コーナー、実演、展示などが行われている。
見学者は一連の機械を実際に動かして、電気や光学の実験を試みることができる。
また、子供たちが時間を忘れて楽しめる素晴らしい場所でもある。
近年には海事と航空の展示ホールもオープンさせている。
Uバーン1、7号線Moeckernbruecke駅から徒歩3分

マーティン・グロピウス・美術館 Martin-Gropius-Bau

ドイツの建築家。バウハウスの初代校長でモダニズムの建築家・ ヴァルター・グロピウスの大伯父にあたる。
建物は国立装飾美術館として建てられたが、戦争で焼失し、復元されたもの。
常設展を置かず、現代のアート、写真、建築、彫刻、考古学など幅広いジャンルから国際的に評価の高い大規模な展示を行っている。
設計者は、バウハウスの創立者であるヴァルター・グロピウスの叔父。広いアトリウム(吹き抜け)のあるイタリアン・ルネサンス様式の建物で、外壁はモザイクとテラコッタ製のレリーフで飾られている。
Niederkirchner Strasse 7
UバーンPotsdamer Platz駅

オーバーバウム橋 Oberbaumbrucke

この橋からはベルリン市内とシュプレー川を一望できる。
シュプレー川に架かるオーバーバウム橋は、ベルリン市内への入口として 1700 年代に架けられた木の跳ね橋だった。
現在の二階建てのオーバーバウム橋は 1896 年に開通したもの。ゴシック様式の 2 本の塔は、かつての関門としての役割を果たしていた。
1961 年から 1989 年までは東西ベルリンをつないでいた。西側には通行人用の国境検問所が設置されていた。壁の崩壊以降、道路と鉄道が再開された。
Warschauer Strase駅から徒歩10分

トルコマーケット Turkischer Markt

クロイツベルク地区Kreuzbergはトルコ人の多く住む界隈で、リトル・イスタンブールとも呼ばれている。
路を歩くとスカーフを被った、たくさんのトルコ人たちとすれ違う。
Landwehrkanal運河沿いに、毎週火曜日と金曜日になるとトルコマーケットが出現する。
野菜・果物から日用品、手芸用品や洋服まで幅広く売られていて、トルコの香りがいっぱい。屋台も出ていて、食べ歩きしながら巡ることもできる。
火曜日と金曜日の11:00~18:30
U8 Schonlein Str駅下車Landwehrkanal沿い


シャルロッテンブルク地区 Charlottenburg

ベルリン西部にあるこの地区は、壁が崩壊するまでは一番の観光スポットだった。現在は当時ほどの人気はないものの、訪れる価値は十分にある。ツォー駅の南側にあるクアフュアステンダムKurfurstendammと、さらに南に延びるタウエンツィエン通りTauentzienstrasse (有名なカー・デー゜ヴェー百貨店KaDeWe department storeの発祥地。)などがある地域ではショッピングを満喫できる。ヘルムート・ヤーンのガラス張りのオフィスや、ノイエス・クランツラー・エックNeues KranzlerEck (Kurfarstendamm 23)と呼ばれるショッピングセンターなど、待望の現代的な新しい建物ができた。ただ、今でも観光客の多くを魅了しているのは、バロック様式のシャーロッテンブルク宮殿や、周辺の博物館・美術館である。

シャーロツテンブルク宮殿 Schloss Charlottenburg

シャーロッテンブルク宮殿は、ホーエンツォレルン王家の威光を今に残す数少ない建物のひとつである。ここは選帝候フリードリヒ3世(後の国王フリードリヒ1世)が、妻ソフィー・ジャーロッテ(1668~1705年)のために建てた夏の離宮で、ツォー駅の3km北西のシュパンダウアー・ダムSpandauer Dammにある。

妃は1700年、ライプニッツLeibnizとともに「科学協会Societat der Wissenschaften」および後の(王立科学芸術アカデミーKonigliche Akademie der Wissenschaften und Kunste」を創設した。
1695年にごく小規模な建築が始められたが、やがて拡大され、1710年には上にドームが載せられた。ドームの頂の金箔のモダンな運命の女神フォルトウナFortuna像が風見の役を果たしている。
次の軍人王(フリードリヒ・ヴィルヘルムー世)は同宮殿を放っておいたが、フリードリヒニ世はクノーベルスドルフKnobelsdorff(1699~1753)に新しい東翼(新翼Neuer-Flugel)をつくらせた。この新翼の唯一の飾りは、前面に張り出した短い列柱である。その後この宮殿には、特にフリードリヒ・ヴィルヘルム三世の妃ルイーゼが好んで逗留した。
記念の庭Ehrenhofには、アンドレーアス・シュリューターの傑作大選帝侯の騎馬像Reiter-standbild des Graven Kurfursten (1703年)が立っている。

宮殿の中央にある、一番古い区域は旧館Altes Schloss 。
ソフィー・シャルロッテ妃の住居として、1695年から1713年にかけて建築家アルノルト・ネーリングArnold Neringとエオザンダー・ゲーテEosander Gotheが建設したもの。

各部屋は化粧漆喰、紋織り、金箔などすべてに贅が凝らされていて、派手な造りになっている。見どころは、鏡の間Hall of Mirrors、フランス庭園と遠くのベルヴェデーレを望むオーヴァル・ホールOval Hall、フリードリヒ1世の寝室にある風力計、中国製の青磁器や彫刻で埋め尽くされた陶磁器の間、トロンプ・ルイユ(だまし絵)が描かれたエオザンダー礼拝堂など。ツアーの後は自由に上階を見学できる。多くの絵画、銀製品、花瓶、タペストリー、武器、マイセンの陶器など、王家の生活に欠かせないものが数多く展示されている。
フリードリヒ2世の治世時代、1746年に新館ノイアー・ブリューゲルNeuer Flugelが建てられた。ここには、ひだ飾りのついた白の間White Hall、手の込んだ凹面の天丼を持つ大食堂、鏡や金箔で派手に装飾されたロココ様式の黄金の間、コンサート・ホールなど宮殿の中で一番美しい部屋が数多く集まっている。階段のすぐ右側にあるのは、比較的質素なフリードリヒ2世の冬季の間Winterkammernである。
宮殿の各建物は、別々に入場料がかかる。コンビネーション・カードKombinationskarteなら、ノイアー・フリューゲルNeuer Flugel (音声ガイド付)、新パビリオンNeuer Pavillion、霊廟Mausoleum、ベルヴェデーレBelvedere (陶磁器博物館)、旧館の上階すべてに入場できる。
Richard-Wagner-Platz駅から徒歩5分

オリンピック・スタジアム Olympia Stadion

このスタジアムは、1936年のオリンピック競技大会のためにヒトラーが建設を命じた。
高さ77mの鐘塔(エレベーターで上る)から、132haにおよぶ旧帝国競技場を一望できる。
スタジアムの建設計画は、ナチスが政権に就く前から始まっていた。建物にはナチスの趣味が多く見受けられるが、基本的には無駄のない機能的な造り。巨大な建物の一部は地面に埋もれている。
オリンピックは、ナチス政権の宣伝活動として大成功をおさめ、ナチス支配の陰惨な側面を隠すことができた。競技ではドイツがほとんどのメダルを獲得したし、女流監督レニ・リーフェンシュタールが素晴らしい記録映画を撮った。
2006年のサッカーワールドカップドイツ大会の会場として使用された。この時に、FIFAの定めるスタジアムのスペックにあわせる為に大規模な改修工事を行っている。スタンドの上に設置されている屋根もこの時に設置された。決勝戦を含めた6試合がこのオリンピック・スタジアムで開催されている。
スタジアムの西に広がる広大なマイフェルトMaifeldは、ナチの大集会に使われていた場所だ。ここには77mの鐘塔Glockenturm があり、スタジアム、市街、ハ-フェル川を見下ろす景色が楽しめる。北西には見事な円形劇場Waldbuhneがあり、サマーコンサートや映画上映などの文化的行事に使用されている。
U-Bahn/S-Bahn:Olympiastadion駅


クーアフルステンダム地区

16世紀、選帝侯の道という意味のこの通りは、グルーネヴァルトの森にある皇室の狩猟宮へ続くただの丸太道(土手道)にすぎなかった。1882年から1886年にかけて、ビスマルクがこれを壮麗な並木道に拡充、美しい住宅を立ち並べたおかげで、現在の姿となった。
ベルリン市民が「クーダムKu'damm」の通称で呼ぶ長さ3.5kmのこの並本道には、今日ではカフェ、レストラン、劇場、映画館、アートショップ、ファッションブティックが軒を並べ、国際都市ベルリンの中心舞台となっている。
南端のブライトシャイト広場Breitscheidplatzには、ランドマークのカイザー・ヴィルヘルム記念教会Kaiser-Wilhelm-Gedachtniskirche (1895年)が静かに立っており、活気のある商店街の中でもおごそかな雰囲気を漂わせている。
連合軍の爆弾により、西塔だけを残して焼け落ちた。現在はそこに記念ホールGedenkhallができている。天井のモザイク、大理石のレリーフ、礼拝用の品々、爆撃前後の写真などが展示されている。隣にある八角形の礼拝堂hall of worshipの深い青色の窓は、1961年に付けられた。

カイザー・ヴィルヘルム記念教会 Kaiser-Wilhelm-Gedachtniskirch

1891~1895年に皇帝ヴィルヘルムー世を記念して建てられた新ロマネスク様式の教会。
第2次世界大戦の爆撃で激しく破損した。廃墟となった教会塔は、戦争の恐怖の証としてそのままの形で残され、今日ではベルリンのシンボルとなっている。
破壊された旧教会の横に新しく建てられた幻想的かつ現代的な8角形の教会と鐘楼が建てられた。8角形の新しい教会の中は静寂に包まれている。二重になった蜂の巣形多角形で造られたステンドグラスから穏やかな光が射し込み、その深い青色が他の鮮やかな色と溶け合う。このガブリエル・口フールの設計による2万個におよぶガラス窓は、フランスのシャルトルで製作された。
塔内下部のかつての入口の間は、現在記念ホールGedenkhalleとなっている。ホール内では、教会の歴史を解説し、戦争の犠牲者を追悼し、和解の必要を説く展示が行われている。ホーエンツォレルン諸侯とドイツ皇帝を賛美する天井と壁のモザイクDecken-und Wandmosaiken (1908年)は、かなりよい状態で残っている。
広場の東側には、1960年代に完成したショッピングセンター、22階建てのヨーロッパ・センターがそびえる。
https://gedaechtniskirche-berlin.de
Sバーン、UバーンBerlin Zoo駅から徒歩5分

ケーテ・コルヴィッツ美術館 Kathe-Kollwitz-Museum

二つの大戦時代を生きた女性版画家・彫刻家ケーテ・コルヴィッツ(1867~1945)の悲しいまでに力強い作品の展示。
彼女の作品を展示するために1986年5月、画家・画商のハンス・ペルス=ロイズデンにより設立された美術館。
1867年に東プロイセンのケーニヒスベルヒ(現在はリトアニア共和国)に生まれた彼女は職人だった父親やその弟子から絵や版画を習って育った。
1891年、医師のカール・コルヴィッツと結婚したケーテは、夫のもとに診療で訪れる患者は多くが貧民街に暮らす貧しい労働者や社会の底辺にいる貧しい人々であり、彼女はその人たちをモチーフに多くの力強い版画や彫刻の作品を制作している。
ケーテには2人の息子がいた。
1910年第一次世界大戦が始まる時、2人の息子は兵士に志願、彼女はそれを後押ししたのだ。そして、開戦して僅か1週間後に次男のペーターがフランドルで戦死。
「なぜ出兵をとどまらせることができなかったのか」、彼女にとってその後の人生を通してずっと苦悩と後悔の念に苛まれ続けることになる。
彼女が制作した彫刻がある。「母親と2人の子供 Mother with Two Children」(ブロンズ)からは、子どもを守れなかった自責の念が伝わってくる。
息子の死を機にケーテの作風が変わり、彼女の作品は、フランスの作家ロマン・ロランの言葉を借りれば、「素朴な一般庶民の試練と苦悩」を映し出している。
エッチングから太く粗野な線を主とする木版画を多く描くようになる。愛する家族を失い、悲嘆にくれる母親とその周りの子どもたちを描いた「戦死Gefallen」(1920年)や 「織工の蜂起Weberaufstand」(1893~97)、「農民戦争 Bauernkrieg」(1903~08)、 木版シリーズ「戦争Krieg」(1921-22年)や「プロレタリアート(無産階級) Proletariat」(1925年)、など7作から成る連作、後期のリトグラフ(石版画)作品群「死Tod」、自画像など、彼女の創造上の転機を飾る作品である。戦争が生み出す身も蓋もない残酷さを直裁的に描いた表現が心に突き刺さる。
エッチング作品群「戦争Krieg」(1922~23)「二度と戦争は御免Nie wieder Krieg」などの20年代の有名なポスターは、彼女の人道主義的・政治的アンガージュマン(社会参加)の姿勢を示している。
第2次世界大戦では孫を戦地で失い、ドイツの終戦直前の1945年4月22日彼女はモーリッツブルクで77歳で世を去った。
フアザーネン(キジ)通りFasanenstrasse 24番地。
(クーダムの裏通り、カイザー ヴィルヘルム記念教会から徒歩10分)

ベルリン動物園Berlin Zoo

エキゾチックな象の門が目印の は、1844年にできたドイツで一番古い動物園で、ヨーロッパ最大の敷地面積を誇る。
絶滅寸前のサイ、中国から預かった珍しいジャイアント・パンダなど、1500種類、1万4000匹もの動物が飼育されている。
隣の3階建ての水族館には、魚、両生類、爬虫類などの生物がいる。ハイライトは、ワニ館。
Hardenbergplatz 8
Berlin Zoo駅から徒歩5分

ストーリー・オブ・ベルリン The Story of Berlin

ベルリン800年余の歴史が、模型や映像などを使って興味深く展示されている博物館。
戦争、東西分裂時代、壁の崩壊に至る実際のニュース番組まで、23のテーマに分けて展示されている。
ここの一番人気の見所は、1時間に1回の地下核シェルター(バンカー)の見学ツアーだ。
東西冷戦時代に作られたもので、薄暗い地下にベッドやトイレなどが整備されている。
U-1;Uhland Strasse駅から徒歩3分


ベルリン西部シュパンダウ地区 Spandau

ハーフェル川とシュプレー川の合流点、ハーフェル川の西岸部に位置する。

シュパンダウ要塞 Zitadelle Spandau

16世紀後半にブランデンブルク辺境伯ヨーアヒム2世の命により建てられたルネッサンス様式のシュパンダウ城塞は、正方形の煉瓦造り建築の角は、鋭角の稜堡で守られている、函館の五稜郭のような星型をしている要塞である。この要塞はいわゆる「イタリア式」堡塁のアルプス以北における唯一の例。波瀾に富んだ歴史において、スウェーデン、オーストリア、フランス、ロシア、プロイセン軍の攻撃にさらされてきた。
ガス防護の研究に使われたり、政治犯の監獄にもなったりもしたという。
要塞を右に回る。中世の城の唯一の名残である高さ32mのユーリウスの塔(Juliusturm)は、今日ではシュパンダウ要塞のシンボルとなっている。
1870年の普仏戦争に敗北したフランスからの賠償金(金貨で1億2000万マルク)が、1874年以降この塔に保管された。塔の上り階段(上り口)は、驚くべきロック装置で防護されている。 145段を登りつめると展望台に出る。外側には、建物南側の基礎壁を背にして、ヘブライ語の墓碑名のある13、14世紀のユダヤ人墓石が立っている。
これらは1510年に荒廃したユダヤ人墓地のもの。
建物内部はシュパンダウ市歴史博物館Stadtgeschichtliches Museum Spandauになっている。博物館では、シュパンダウ城塞の歴史についての展示がされている。(入口は小橋を渡ったところ)。
Zitadelle, Am Juliusturm 64,
U7の終点Zitadelle駅下車

トイフェルスベルク Teufelsberg(悪魔の山)

悪魔の山とも呼ばれる「トイフェルスベルク」は、米国の国家安全保障局がソ連の通信を傍受するために小高い山の上に建てた、傍受のためのレーダー施設。ボロボロになっている白いドームの残骸が残る。
現在はアートスペースとして開放されている。
ドームの上部も含む一部のエリアは崩壊の危険があるため、立ち入り禁止となっているが、他のエリアにも見どころがある。地元のアーティストがウォールペインティングしたり、オブジェをつくったりと、現代のストリートアートの雰囲気のある場所になっている。東西冷戦時代の名残を感じられる場所に一つである。


ベルリン南西部シュテーグリッツ・ツェーレンドルフ地区 Steglitz-Zehlendorf

ベルリンの南西部には緑が多く、土地の半分が森、川、湖である。ダーレムDahlemとヴァンゼーWannseeの高級住宅地が、この小さな町に個性を与えている。

民族学博物館 Ethnologisches Museum

1990年のドイツ統一後に美術館の再編・統合が行なわれ,ダーレム博物館が民族学博物館,アジア美術館,ヨーロッパ文化博物館に再編され、民族美術作品を収蔵する複合文化施設となっている。世界でも指折りの民族学の収集品がある。
館内はアジア美術館、インド美術館、イスラム美術館、アフリカ民族誌学館、アメリカ民族誌学館、その他の民族などに分かれている。
Lansstrasse 8,
Uバーン3号線Dahlem-Dorf駅徒歩5分

ヴァンゼー会議記念館 Haus der Wannsee-Konferenz Gedenkstatte

1942年1月、ヴァンゼー湖のおごそかな邸宅にナチス党上層部員が集まり、ユダヤ人の追放と絶滅、つまり「最終的な解決策」(いわゆるホロコースト)に関する会議が行われた。
その建物が現在はヴァンゼー会議記念館となっている。
運命を決めた部屋に立ち、会議の様子を想像し、残忍なナチスの写真が見られる。
別の部屋には、徹底した写実的手法で、大量虐殺中に行われた恐ろしい行為、またそこにつながる事件などが記録されている。
Am Grossen Wannsee 56-58
SIまたはS7でヴァンゼー駅Wannseeまで行き、114番のバス。

グルーネヴァルト Grunewald地区

グルーネヴァルトの広大な森は、AVUSという直線の高速道路で分断されている。この道路は1909年にテスト道路として造られ、1921年に最初のアウトバーンとなった。
広さ3100haにおよぶオーク、白樺、松の森。野生のシカ、ノロジカ、イノシシが住み、すでに16世紀から選帝侯の狩猟区であった。森の東の境にはいくつもの小さな湖が連なり、湖と湖の間には住宅地が広がっている。このような湖の一つ、グルーネヴァルト湖の畔には、1542年カスパル・トイスCaspar Theyssが選帝侯ヨアヒムニ世のために建てたグルーネヴァルト狩猟の館Jagdschloss Grunewaldがある。
ゆったりと流れるハーフェル川に育まれた緑豊かな森に隣接する閑静な住宅街で多くの富裕層が静寂と平穏をもとめて住んだいる。
そんな地区に、ベルリンの悲しき歴史をかいま見る事ができる場所がある。
ドイツの過去の反省として残している場所である。

グルーネヴァルト駅 17番線 Grunewald

ベルリン中心部からSバーンのS5、S7、S75のいずれかでポツダム方面行きに乗車して、
20分ほどでグルーネヴァルト Grunewald駅に着く。
駅舎からほど近い場所に、現在は使われていないプラットフォーム、17番線(Gleis 17)がある。かつての貨物ホームである。
この場所からたくさんのユダヤ人が強制収容所に送り込まれる事になった始発駅と言われている。
ドイツの過去の反省として残している場所である。
グルーネヴァルト(Grunewald)駅としては現在も機能しているが、17番線のみが使われずに保存されている。
1941年10月18日に1251人のユダヤ人を乗せた「特別列車」がここを発って以来、終戦間際までの3年半の間に約5万5千人が強制収容所に送られたという場所である。
駅構内から階段を上っていくとホームの両脇に敷き詰められた鋼鉄製のプレートがある。
そのプレートには強制収容所へ向かって列車が出発した日付と輸送された人数、そして行き先が刻まれている。プレートの数は全部で183枚。
そのほとんどにLodz(ウッチ)現在のポーランド、もしくはTheresienstadt(テレージエンシュタット)(現在のチェコ北部)と刻まれている。
当時ナチス・ドイツの占領時にあってゲットーが置かれていた。
1942年末からはアウシュヴィッツの名前も見かけるようになる。
一番最後のプレートには、「1945年3月27日、ユダヤ人18人 Theresienstadt」と記されている。
ここから送られたユダヤ人はベルリン周辺だけで、ナチスの犠牲になったユダヤ人全体の100分の1程度でしかない。

グルーネヴァルトの塔 Grunewald-Turm

  

グルーネヴァルトの広大な森、グルーネヴァルトの中に立つ36メートルの新ゴシック様式の煉瓦造りの塔。展望台からは眼下のハーフェル川から市内中心部まで雄大なパノラマを楽しめる。
Havelchaussee 61,
Uバーン Theodor-Heuss-Platzから218番バスに乗って20分ほど。
www.restaurant-grunewaldturm.de

ブリュッケ美術館 Brucke Museum

ドイツ表現主義の最も中心的な芸術家グループ「ブリュッケ(橋)」の作品。v ブリュッケは、奔放な筆致と強烈な色彩によって表現力に富む芸術を生み出そうとする美術大学の学生たちによって、1905年、従来の美術学校のまじめくさった教え方からの脱却を目指す芸術家グループがドレスデンで結成された。 グループはディー・ブリュッケDie Brucke (橋)と名づけられ、
1911年、グループはベルリンに移住、1913年に解散するまで同市で活動した。
カール・シュミット=ロットルフKarl Schmidt-Rottluffとエーリヒ・ヘッケルErich Heckelの作品を中心に、同グループの油絵、彫刻、水彩、素描作品が紹介されている。
そのぽかにマックス・ペヒシュタインMax Pechstein、オットー・ミュラーOtto Muller、エルンストリレートヴィピキルヒナーErnst Ludwig Kirchner、エーミール・ノルデEmil Noldeの作品もある。
ブリュッケ美術館は美しい森の中にあり、グリューネヴァルトの森の中に平屋建てのこぢんまりとした建物であるが、作品が見やすく、かつモダンな設計である。
Bussardsteig 9
U1のOskar- Helene-Heim駅で下車し、115番のバスでピュックラー通りPiicklerstrasseへ。

連合国博物館 Allied Museum (Alliierten Museum)

元々は米軍基地内の映画館だった連合国博物館(Clayallee 135)は、東西冷戦中の西ドイツの歴史を記録したマルチメディア博物館だ。
チェックポイント・チャーリーの衛兵所、ベルリンの壁の一部、ドイツ共和国の見張り塔などがある。
建物内にベルリン空輸に関する資料や、CIAがソビエトの情報を盗聴するために造ったベルリン・スパイトンネルの復元版などがある。
U1のOskar-Helene-Heim駅で下車し、クレイ並木通りClayalleeの北までバスに乗るか、徒歩で10分。


南部地区テンペルホーフ=シェーネベルク地区 Tempelhof-Schoneberg

バイエルン広場 Bayerische Platz
(ホロコースト記憶の場所 Orte des Erinnerns)

この地域にはイラストの描かれた看板がたくさんある。
これは記憶の場所 Orte des Erinnernsという。
ナチス政権のユダヤ人に対して行った迫害の歴史を忘れないように造られたもの。
ナチス政権の誕生した1933年以降、ドイツではユダヤ人が迫害され、多くの人が強制収容所で命を奪われた。
もともとユダヤ人が多く暮らしていたこの地域では、1993年に約80個の看板が建てられ、そのそれぞれにナチスドイツが制定した法律の条文の一部が書かれている。
例えば、ユダヤ人はヴァンゼー湖で水浴びをしてはならないなど。
当時はこういう法律があってユダヤ人はこのように差別されていたのですというのを忘れないために、人々の記憶から消えないように「記憶の場所」として残している。
この辺りは裕福な人々が多く住んでいた。第2次世界大戦前、ユダヤ人が多く住んでいた。アインシュタインもアメリカへ亡命する前はこの地区に住んでいた。
(ユダヤ人女性と結婚している郵便局員は退職しなければならない)
郵便局員にかかわることなので反対側は葉書のデザインになっている。
楽譜のイラストの看板には(ユダヤ人は合唱団から排除される)
(ユダヤ人のラジオは没収とする)
パンのイラストには、(ベルリンに住むユダヤ人は午後4時から6時の間しか食品を買ってはならない)
時計のイラストには(ユダヤ人は午後8時以降(夏は9時以降)外出してはいけない)
この地区に住む女性によるガイドツアーが多く行われるという。
これらの看板はある市民運動がきっかけだった。
多くの人々に受け入れられた。普通なら十分起こりうることなんだが、今まで壊されたりもしていない。
UバーンBayerischer Platz駅。

シェーネペルク区庁舎 Rathaus Schneberg

ベルリンの各区には、それぞれ区庁舎(Rathaus)がある。町の南にあるシェーネベルク区も例外ではない。しかし、ほかの区と違うのは、かつての西ベルリン市庁舎だったことだ。共産主義者たちが東ベルリンの中心にある「赤い市庁舎」を占拠すると、高い塔のあるこの大きな建物に西ベルリン議会が置かれた。エルンストロイターをはじめとする歴代の西ベルリン市長は、国内だけでなく国際的に有名な存在となり、シェーネベルクの西ベルリン市庁舎は数々の演説や会議の舞台となった。 1963年7月26日には当時のケネディ米大統領が西ベルリン市民に囲まれて連帯を呼びかけた。よく引用される「私はベルリン市民(Ich bin ein Berliner)」というこの時の一節は、厳密に言うと文法的に誤りだが、彼が聴衆に呼び起こした感情を損なうことはなかった。
塔の高い場所には米国のフィラデルフィアにある「自由の鐘」の複製がある。ベルリン空輸作戦の立案者のひとり、ルージャズ・D・クレイ将軍が贈ったものだ。
U-Bahn-Rathausi Schoneberg駅

空輸記念碑 Luftbriickendenkmal

2008年に閉鎖されているテンペルホーフ空港の外に立つ空輸作戦を記念する碑。
3本の弧を持つ彫刻はベルリンの激動の歴史の中でも、この「空の架け橋」作戦はいまだに伝説的な存在であり続けている。
1948年6月24日、ソ連による「ベルリン封鎖」で西ベルリンは孤立し、周囲の陸路の交通網がすべて絶たれた。
ほぼ1年間にわたりアメリカのクレイ将軍指揮下の西側連合国が、西ドイツと西側ベルリンを結ぶ高度3,000m、幅30Kmの3本の空路に限られた空の経路だけを使って大空輸作戦が展開された。
1949年5月11日にソ連のベルリン封鎖解除までの11ヶ月間、27万回の空輸が行われ、220万人の西ベルリン市民のために食料や燃料、その他の生活物資を運び続けた。
記念碑の3本の柱は空輸ルートを表し、土台部分には作戦中の事故で死亡した兵士の名前が刻まれている。


東地区

トレプトウ=ケーペニック地区 Treptow-Kopenick
マルツァーン=ヘラースドルフ地区 Marzahn-Hellersdorf
リヒテンベルク地区 Lichtenberg
ライニッケンドルフ地区 Reinickendorf

シュタージ博物館 Stasi Museum

リヒテンベルク地区にあったシュタージ(旧東ドイツ秘密警察・国家保安省)の本部だった建物が博物館になっている。
シュタージがどのように旧東ドイツ国民を監視し、国内外を諜報していたかがわかる。
長年秘密警察のトップだったエリッヒ・ミールケのオフィス、盗聴器、隠しカメラ、隠しピストルや密告者などの監視装置、共産党員の所持品などが見られる。
Ruschestrasse 103 Haus 1,
UバーンMagdalenenstrasse駅から徒歩5分

ドイツ・ロシア博物館
Deutsch-Russisches Museum Berlin-Karlshorst (降伏博物館)

1945年5月8日の深夜、ナチス・ドイツの代表が、ドイツ国防軍の無条件降伏に署名した場所である。
もともとはドイツ軍将校向けのカジノとして1930年に建てられた建物。
第2次世界大戦、特に甚大な犠牲者を出した41年6月からのドイツの東方戦線の資料などが展示されている。
この博物館はソ連軍がベルリンから撤退した後の1995年にオープンした。
Zwieseler Str. 4,
U5のTierpark駅からバス296番に乗り、Museum Berlin-Karlshorst下車すぐ。
または、S3のKarlshorst駅で下車。
入場無料。
www.museum-karlshorst.de

トレープトーヴァー公園(ソビエト戦争記念館)
Treptower Park(Sowjetisches Ehrenmal)

シュプレー川沿いに広がる巨大な公園。
休日や夏休みには地元の人がピクニックにやってきて、多くの人で溢れている。
トレープト公園Treptower Park内に大きな旧ソ連戦没者記念碑がある
この記念碑は、1949年、第二次世界大戦時のベルリン攻略戦で倒れた赤軍兵士の慰霊碑である。
SバーンTreptower Park駅


近郊

ザクセンハウゼン強制収容所 Konzentrationslager Sachsenhausen

1993年1月以降、ザクセンハウゼン追悼博物館 Gedenkstatte und Museum Sachsenhausenとなっている。
ベルリンの北約30kmの町、ブランデンブルク州のオラニエンブルクOranienburgにある。 ナチス・ドイツ時代にユダヤ人や政治犯が強制労働をさせられていた場所。
ベルリンに最も近い強制収容所で、ナチス政権時代に各地の収容所が作られていった。
この収容所の敷地は一辺が600メートルの三角形で、総面積は190ヘクタールほどであり、ナチスの強制収容所時代の陰惨な多くの遺産が残されている。
ユダヤ人が強制労働させられていた棟や、人体実験と解剖が行われていた部屋などが残され、悲しい歴史を物語る場所である。シンティおよびロマの人々もまた犠牲になっている。ドイツ軍が撤退時に死体を焼却する炉を爆破していった跡もある。
敷地内には、戦後ソ連軍によって建てられたオベリスクの様な慰霊塔が立つ。その台座にはこの収容所に収監された人の様々な国名が刻まれている。
月曜休み、入場は無料
Strasse der Nationen 22 D-16515 Oranienburg
Sバーンで約45分、または中央駅からRE快速で約25分 Oranienburgで下車。徒歩20分。
要所に掲示されている Sachsenhausenの看板が建っている。
バス804番 Gedenkstatte下車(平日1時間に1本、土日は2時間に1本の運行)
http://www.stiftung-bg.de/gums/

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