アセノヴグラード Asenovgrad


概要

プロヴディフからバチコヴォ僧院への手前3kmにある町。
アセノヴグラトはワインの生産地としても知られており、ここで造られたワインはブルガリア各都市で広く流通している。
また、ウェディングドレスの生産でよく知られ、ブルガリア各地から結婚式を控えた人々がこの町を訪れる。
市内の南にアセン要塞がある。近隣にはイヴァン・アセン2世が建てたペトリチ聖母教会 が建つ。

アセン要塞 Asen's Fortress(アセノヴァ要塞 Asenova krepost)

アセン要塞の頂にはブルガリア国旗が翻る。第2次ブルガリア帝国時代に最盛期を迎えたこの要塞の起源は、石器時代にまで遡ることができる。
アセン要塞は、見上げるような切り立った岩山の頂上にある。時代ともにトラキア人、ローマ人、ビザンティン人、十字軍、ブルガリア人、オスマン人と、時代ごとに支配者を代えてきたが、要塞としての機能は失うことがなかった。まさに「地の利」を生かした要塞となっている。
紀元前400年から紀元前300年ごろ、トラキア人によって、この要塞は築かれた。周辺にはトラキア人の生活の痕跡も残されている。
紀元前72年には、ローマ帝国による黒海への拡張の中でローマ軍に征服された。
395年、ローマ帝国が東西に分割された際には東ローマ帝国の配下に置かれた。
ブルガリア帝国とビザンティン帝国(東ローマ帝国)との関係悪化に伴い、町はブルガリアの軍事要塞として活用された。
ブルガリアとラテン帝国との1230年にブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世は町の要塞を強化した。「アセノヴグラト」の呼称はこれに因んで、皇帝の名をとって1934年に命名されたものである。

ペトリチ聖母教会

アセン要塞のそばにイヴァン・アセン2世が建てたもの。
オスマン・トルコの支配時代、必要性のなくなった要塞は破壊されたが、ペトリチ聖母教会は破壊を免れる。中世のキリスト教建築として、いまや貴重な存在となった。保存作業を経た現在、ブルガリア正教会の教会としての活動が再開されている
ペトリチ聖母教会の2階には、3世紀の壁画が部分的に残されている。要塞の教会だけに、塔は見張り台としても活用された。1階は納骨堂として建築されたと推定されている。















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