ハンガリーの歴史

ハンガリーの歴史年表


紀元前1世紀 ローマ帝国が属州パンノニアを置く。
紀元4世紀 ローマ帝国が衰退、ゲルマン人の移動が始まり、この地にゴート族が到来。
5世紀 フン族が侵入。
6世紀 遊牧民のアヴァール人などテュルク系民族が到来し定着。
896年 ウゴル系遊牧民であるマジャル人が草原地帯へ定住していく。
1000年12月25日 イシュトヴァーン1世がハンガリー王として即位。神聖ローマ帝国の承認を受けてローマ教皇から王冠を授かり、ハンガリー王となり、現在のスロバキアやクロアチア、ルーマニアなどを支配下に置く大国を作り上げる。
1241~1242年 モンゴルのヨーロッパ方面への侵略を受けてハンガリーも他の東欧諸国同様に被害をうける。「モヒの戦い」によってハンガリー軍は壊滅、モンゴルはさらに西へと進軍を続けていく。
時のハンガリー王ベーラ4世はモンゴルの追跡から逃れるため、現在のクロアチア・ダルマチアの海岸部に避難した。ダルマチア海岸の都市にはハンガリーからの亡命者が多く押し寄せ、ベーラは貴族と聖職者を伴ってスプリト、トラオに移動し、トラオからアドリア海沖の島に渡った。
一方モンゴルはクリッサにベーラが立て籠もっていると考えて包囲を行うが失敗し、ベーラがクリッサにいないことを聞き知ると包囲を解き、トラオとスプリトに軍を分けて進軍。トラオに到着したモンゴルはベーラが籠る島の向かいに陣を敷くが、1242年3月にオゴデイ・ハーンの訃報が届けられると東方に帰還してしまった。
ベーラはモンゴルが完全に退却したことを確認して島から出た。ベーラはこの島に自分の名を冠した「ベーラ島」という名を付けた。
モンゴルが通過した地域は破壊と略奪、虐殺によって荒廃しており、さらにモンゴル軍が去った1242年には疫病と飢饉がハンガリーを襲った。
モンゴルの侵入によって山岳地帯では25%から30%、平原部では50%から80%もの居住区が破壊され、人口は半減した。
荒廃した王国の復興のため、ベーラは軍事を中心とした改革を実施した。
モンゴル侵入以前に王宮を置いていたエステルゴムは大司教に委ねられ、ブダに新たな王宮を建設、首都をブダに移した。
14世紀 オスマン帝国が侵入してくる。
1396年 神聖ローマ皇帝でハンガリー王のジキスムントは連合十字軍を組織し、対抗したが「ニコポリスの戦い」でオスマン帝国に敗北。
1419年 - 1439年 フス戦争。15世紀に中央ヨーロッパで起こった戦争。ヤン・フスの開いたキリスト教改革派のフス派(プロテスタントの先駆)の信者(ボヘミアとポーランドを中心とする)と、それを異端としたカトリック、神聖ローマ帝国の間の戦い。
1526年 オスマン帝国軍がモハーチの戦いでハンガリー王国に勝利。
国土はオスマン帝国とハプスブルク家の支配下に分割され、ハンガリーの自治は失われた。
~1699年までオスマン帝国による占領が続く。
1541年 ブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国(オスマン帝国領ハンガリー)、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配される(王領ハンガリー)。
1683年 オスマン帝国、第二次ウィーン包囲に敗北し軍事的に後退する。
1699年 カルロヴィッツ条約でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアがオーストリアに割譲される。
オスマン帝国は衰退へ向かう
1848年 ハンガリー革命、
3月革命で、コッシュート・ラヨシュはペシュトで武装蜂起し(ペシュト蜂起)、自治政府を設立した。しかし、オーストリア軍とロシア軍の前に敗れ、独立は失敗。
1866年 プロイセン王国との普墺戦争に敗北してドイツでの覇権を喪失するなど弱体化した帝国内部では、ハンガリー人や他の被支配民族の独立運動はなおも活発化した。
1867年 ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。
フランツ・ヨーゼフ1世は自らがオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねることで、オーストリア=ハンガリー帝国が成立する。
1873年 ブダ、ペスト、オーブダの3市を統合し首都ブダペストが誕生する。
19世紀末 ハンガリーでは資本主義が勃興し、民族主義が高揚した。首都ブダペストは地下鉄が整備されるなどヨーロッパ有数の近代都市としての装いを調え、繁栄した。
1914年 第一次世界大戦が勃発。
1914年11月16日 ハンガリー民主共和国が二重帝国から独立した。
しかし共和国の軍事力は弱体であり、東部のトランシルヴァニアをルーマニア王国に、北部ハンガリー(スロバキア・カルパティア・ルテニア)をチェコスロバキアに占領された。
1918年 第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は瓦解しハンガリーは独立。
1919年3月21日 クン・ベーラを首班とするハンガリー共産党が革命を起こし、ハンガリー・ソビエト共和国が成立した(ハンガリー革命)。
しかしルーマニアの介入と海軍提督ホルティ・ミクローシュのハンガリー国民軍の蜂起により8月6日にソビエト共和国は崩壊した(ハンガリー・ルーマニア戦争)。
1920年3月1日 ホルティ摂政によるハンガリー王国の成立を宣言した。
しかし国王候補が定まらなかったため、ホルティが摂政として支配を行うことになった。
1920年6月4日 ハンガリーの領域を確定するため、パリにおいてトリアノン条約が結ばれた。この条約によりハンガリーは北部ハンガリー、トランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、ブルゲンラント、ガリツィアなど領土の3分の2を失い、さらに莫大な賠償金も支払うことになった。このためハンガリーは右傾化し、領土回復を狙うようになった。
ホルティはナチス・ドイツと協調し、ドイツの軍事力を背景にミュンヘン協定やウィーン裁定で北部ハンガリーの一部と北トランシルヴァニアを回復することに成功した。
このため1941年に、ドイツによるユーゴスラビア侵攻が発生すると侵攻に参加した。
ハンガリー軍はユーゴスラビアからヴォイヴォディナを奪回し、占領を続けた。
その後の独ソ戦においてもドイツ側につき、第二次世界大戦を枢軸国の一員として戦うことになった。
ドイツの敗色が濃くなると、ホルティは単独講和に乗り出したため、1944年10月15日にドイツの支援を受けた矢十字党のクーデターが発生(パンツァーファウスト作戦)。 矢十字党のサーラシ・フェレンツが首相となり、ホルティは摂政を退位し亡命した。矢十字党はユダヤ人の移送などドイツの政策に協力し、また連合軍との戦闘の継続を宣言した。
しかし、既にソ連軍が国土の大半を奪取する中で、翌1945年2月13日には首都ブダペストも陥落し(ブダペストの戦い)、矢十字党の政権も短命に終わった。 この戦闘でドイツ、ソ連両軍により街は徹底的に破壊され、またソ連軍により市民の女性の多くが強姦された。
矢十字党の政府はハンガリー・ドイツ国境付近で戦いを続けたが、ドイツの降伏により消滅した。
1946年 王制は廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立。しかしハンガリーはスターリン指導のソビエト連邦の影響下に置かれ、共産主義政党ハンガリー勤労者党の影響が拡大。
1949年 社会主義国家ハンガリー人民共和国が成立、東側諸国に組み込まれた一党独裁制国家となる。
勤労者党の書記長ラーコシ・マーチャーシュは忠実なスターリン主義者であり、反対勢力の粛清を行う。
1949年8月 選挙でハンガリー人民共和国憲法を採択、ソ連を頂点とする社会主義陣営の中に組み込まれる。
1956年10月 反ソ・反政府のハンガリー動乱(現在では革命と呼ばれている)が発生するが、ソ連軍の介入で鎮圧される。
1956年 ソ連のフルシチョフが「スターリン批判」を行い非スターリン化を始めると、ラーコシは失脚した。しかし後継のゲレー・エルネーもスターリン主義者であったため、反発した市民は大規模なデモを起こす。
圧制の象徴であった秘密警察ハンガリー国家保衛庁の建物が襲撃され、職員が市民の私刑を受けることになる。
これを押さえきれなかった政府は、国民に人気のあった前首相ナジ・イムレを首相に就任させ事態の収拾を図る。
事態を重く見たソ連は介入を決定し、ソビエト連邦軍とワルシャワ条約機構軍がハンガリーに侵攻。市民およそ約2万人が殺害され、ナジを始めとした多数の幹部が処刑される。20万人以上の難民がハンガリーから逃れた。
1961年 カーダールは融和的新路線を打ち出し穏健な政治路線を踏み出す。
1968年 新経済メカニズムと称する経済改革が行われ、市場経済が導入。
ハンガリーは他の東欧諸国に比べて経済状態は良好であったが、カーダール政権が長く続くにつれ、徐々に停滞していった。
1968年 社会主義国でいち早く経済改革を導入、企業の自由化などが図られる。
1980年代 ソ連のゴルバチョフ書記長がペレストロイカを推進すると、社会主義労働者党政権は改革派が主導するようになり、急速な民主化を進めた(ハンガリー民主化運動)。憲法改正が行われ、社会主義労働者党は一党独裁制を放棄して西欧流の社会民主主義を志向するハンガリー社会党へ改組し、国名も「ハンガリー共和国」に変更された(第一共和国(ハンガリー民主共和国)、第二共和国に次ぐ共和政体として「第三共和国」と称される)。
1989年10月 社会主義体制と決別し共和国に体制転換。市民はくさり橋に集まり再スタートを祝った。
1989年 ハンガリーはオーストリアとの間の「鉄のカーテン」を撤去し、いわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック事件」を起こす。
これらは他の東欧の共産主義諸国にも影響を与え、東欧革命を急速に促し、ベルリンの壁崩壊および1990年のドイツ再統一、1991年のソ連崩壊など一連の冷戦終焉に向かう流れを生むことになった。
1990年 複数政党による選挙が行われ、民主フォーラムが第1党となり社会主義政権に終止符が打たれたが、政権運営の行き詰まりから1994年社会党が政権に復帰した。
1996年 経済協力開発機構加盟、
1997年 経済が好転し、「旧東欧の優等生」と呼ばれるようになった。
1999年3月 NATO加盟
2004年5月 EU加盟
2007年12月 シェンゲン領域加入
2012年1月 基本法(新憲法)施行

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