ルーマニアの歴史


ルーマニアの歴史年表

紀元前2000年頃  トラキア人から派生したダキア人が住み始める。
紀元前514年  ペルシア戦争では、ペルシア王ダレイオス1世と戦い、その勇敢さをヘロドトスが記録している。
紀元前60年頃  ダキア人は統一国家を成立させた。現在のルーマニアの領土を支配。
101~106年  ローマ帝国・トラヤヌス帝がドナウ以北に国家を築いてダキア人を支配下に置く。
古代ローマのトラヤヌス帝によって征服されたことによりダキア人とローマ人の混血が進み、ローマの公用語であったラテン語を用いるルーマニア民族が形成されていった。
2~3世紀  キリスト教がこの地域にもたらされることになり、キリスト教が普及する。
ルーマニアでは聖アンドレがダキアにキリスト教を伝えたとされている。
271年 西ゴート人が侵入。
ローマ帝国アウレリアヌス帝はダキアを放棄すると共にゲルマン系の西ゴート族に移譲、西ゴート族支配下となる。
378年~  フン族の西進によって西ゴート族かイベリア半島へと移り、その後のフン族の四散によってスラヴ系民族の移住が進み、更にブルガール人が1000年ごろまで支配した。
4世紀~7世紀  中央アジア出身の遊牧民族の侵入
11世紀  トランシルヴァニア地方、ハンガリー王国による支配を受ける
13世紀~14世紀  ワラキア公国、モルドヴァ公国が成立
ルーマニアに初めて2つの独立国家が誕生する。ハンガリーを宗主国とするワラキア公国、反ハンガリー派のモルダヴィア公国である。
1330年  アルジェシュ地方のクネズであったバサラブがハンガリー遠征軍をポサダの戦いで破り、ワラキア公国の独立を達成。
1359年  ボグダンがハンガリー軍を破りモルドヴァ公国成立。
14世紀~17世紀 ワラキア公国,モルダヴィア公国ともにはオスマン帝国による支配支配下になってしまう。
1600年 ミハイ王により、ワラキア、トランシルヴァニア、モルドヴァが統一される
1699年 カルロヴィッツ条約以降、この地域はオーストリア帝国とロシア帝国の影響を強く受けることになった。
19世紀  ワラキアとモルドヴァの独立宣言
1853年 クリミア戦争でトルコがロシアに敗北すると、ルーマニアは独立し、統一国家が誕生。
1856年  クリミア戦争後のパリ条約によりロシアは南ベッサラビアをモルドヴァに割譲。
1859年  モルドヴァとワラキアの議会はともにアレクサンドル・クザを公に選出し、両公国は、事実上、統一された。
1861年  行政的統一が認められ、翌年には統一政府が設置された。
1866年  立憲君主国となり、ホーエンツォレルン家のカロル1世がルーマニア公となった。また、国名をルーマニアに、国旗を制定した。
1877年  露土戦争に参戦。この年の5月9日に独立を宣言、オスマン帝国と独立戦争を展開
1878年  露土戦争後のサン=ステファノ条約により南ベッサラビアを再びロシアに譲り、ルーマニアにはドブルジアの大部分が与えられる。
サン・ステファノ条約とベルリン協定で国際的に承認、ルーマニアの完全独立が認められる。
1881年 カロル1世が国王に即位し、ルーマニア王国を宣言
1916年8月27日 第一次世界大戦で連合国側で参戦した。ルーマニア軍はトランシルヴァニア地方の併合を目指してオーストリアに進撃したものの、旧態依然とした体質と敵ドイツ軍のエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン、アウグスト・フォン・マッケンゼンらの奮戦により、開戦からたった3ヶ月後の1916年12月6日に首都ブカレストを陥落させられた。
1918年12月1日 休戦後、ブコヴィナ、トランシルバニア、ドブロジャ、ベッサラビアを獲得し、大ルーマニアを実現させた。
1922~28年  自由党政権
1928年  民族農民党政権
1930年  カロル2世即位
1940年  「ナチス・ドイツ」の圧力により、ルーマニアは第2次世界大戦に参加。
独ソ不可侵条約を受けてホルティ政権下のハンガリーがトランシルバニア地方を占領。また、スターリンのソ連もルーマニアに侵入し、ベッサラビアとブコヴィナを占領した。このような領土喪失に無為だった国王カロル2世に国民の不満は高まり、王政廃止の原因となる。
1944年  ルーマニアはファシズム団体鉄衛団が政権獲得後枢軸国について戦ったが、ソ連軍侵攻により、政変が起こり連合国につき(1944年のルーマニア革命)、ナチス・ドイツと戦端を開いた。
1947年12月30日  ルーマニアは人民共和国制を宣言し、王制が廃止された。
1948~49年  社会主義経済化(生産手段の国有化、農業集団化)
1965年 それまで党首だったデジの死去に伴い、ニコラエ・チャウシェスクが共産党書記長就任、徐々に独裁色を強めていった。
ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権の元、次第にソ連とは一線を画す一国共産主義を唱え始め西側との結びつきも強めた。
1974年  チャウシェスク、初代大統領に就任。
1982年 オイルショックでの対外債務を強引な輸出経済で乗り切ろうとして物不足を生じ、国民の不満が爆発.
1989年 ベルリンの壁の崩壊に連なる、東欧の民主化の波はルーマニアにも波及した。ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなど、東欧諸国が無血で民主化を成し遂げる中、チャウシェスク大統領は権力の保持を企図したため、暴動が発生。ルーマニアだけは、流血の革命による民主化となった。
1989年12月16日  ルーマニア西部の都市ティミショアラでの牧師強制連行事件に対し、市民は抗議運動を起こし、当局はこれを鎮圧に乗り出したが、死者の発生が抗議運動に過熱化させる結果を招いた。国民のチャウシェスク独裁の不満は一挙に噴出し、暴動は首都ブカレストを含むルーマニア全域に広がった。
1989年12月22日 チャウシェスクは全土に戒厳令をしき、国軍による混乱鎮圧に着手する。しかし、国軍は大統領の命令を拒否し国民に合流。彼らと治安部隊との武力衝突が、首都を含む各地で繰り広げられた。ブカレストでは、市民が共和国広場に押し寄せ、更に共産党本部、放送局を占拠。もはやこれまでと、チャウシェスクは夫人とともにヘリコプターで脱出を試みるが失敗、身柄を拘束されてしまう。これを受けて、暫定政権として救国戦線評議会が結成され、数日で実権を掌握。事実上の政府となった。同評議会は議長に、イオン・イリエスクを選出。
1989年12月25日  チャウシェスク夫妻は即決裁判で銃殺刑となった。
その様子は映像で世界中に配信され、「ベルリンの壁の崩壊」の場面と並び、東欧民主化を国際社会に見せ付けることになった。
チャウシェスクの処刑という劇的な幕切れで80年代から続いた秘密警察管理下の恐怖政治が終結した。長い独裁政治の影響で、市場経済への移行は遅れている。
1991年12月  新憲法発布 ルーマニアは資本主義経済に基づく、「言論」「宗教」「所有の自由」がある共和国であると記載されている。
1992年  救国戦線評議会の党大会では、内部抗争の結果分裂し、同年9月には大統領選、上下院選挙が行われイリエスクが大統領に就任。その後、民主化はされたが、高失業率や経済成長の停滞で前途は多難なものとなり、今も旧東欧圏では遅れをとっている。また、トランシルヴァニア地方の少数民族であるハンガリー系住民との民族問題を抱えている。
2004年 NATOに加盟
2007年 EUに加盟、加盟に際しては、改革が不十分であるとして、欧州理事会によって再審査されたが、加盟後も改革を続行するとして承認された。

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