サマルカンド Samarkand

サマルカンド地図

概要

「青の都」「イスラム世界の宝石」「東方の真珠」など様々な異名を持つ2500年前にソグダ人が築いたシルクロードのオアシス都市。
ウズベキスタンを紹介する書籍に必ずといっていいほどサマルカンドにある青タイルの屋根の建築物が掲載されている。
過去、アレキサンダー大王やモンゴル、ペルシャ、チンギスハンなどの攻撃により、何度も興亡を繰り返しました。
600年前にティムール大王が創建した寺院や神学校(メドレッセ)はどれもが透き通るような青タイルの屋根を持ち、街全体が青く輝くようで、その美しさは600年たった今でも色あせる事はない。

サマルカンドはあまり大きくないので、一日でほとんどの見所を見て回る事が出来る。
天文学者として世界古典科学者の十指に数えられ、ウルク・ペグ天文台での観測では 現在と比べ1年間が1分以内の誤差で記録されていたことは、当時の文化水準を物語る
古代シルクロードの時代から幾多の破壊と再建を繰り返しながらこのオアシス都市は長い歴史を生きぬいてきた。

神聖な場所 i Luoghi Sacri

サマルカンドの神聖な場所フォト

サマルカンドは神聖な場所として世界的に有名である。最も古いハソレト・ヒジル、シャヒジンダ、そしてビシャーダニヤルはアフラシャブにある。それらはイスラム教が入ってくる以前に建設され、自然の力の嵩拝と関わりがある。
ホジャ・ダニヤルのマザルは、アフラシャブの北部の小さいシアブ川の鉱泉の近くにある。伝説によると、ここにはダニヤル (ダニエル)が埋葬されたそうで、この場所は回教徒だけではなく、キリスト教徒やユダヤ教徒も神聖な場所として崇めている。
サマルカンドの土地の主要な遺物は、著名なイスラム教神学者の墓である。それはイマム・アルブハリ(870年没)とポシャ・アルモツリディ(944年没)である。アルモツリディの現代の廟は、神聖な墓地チョカルディズの領域に造られた。伝説によると、12世紀の半ばごろ、カトワンステップの壮大な戦いの時にカラーチャイニス人で殺されたサルタン・サンジャルのイスラム教の軍隊の兵士が埋葬されているそうである。サマルカンドの著明なスーフィーの教主であるホジャ・アフラルおよびマフデウミ・アザムの墓は大きい記念コンプレックスの中心にあり、特に尊重されている。

サマルカンドへのアクセス

空路

東京からはウズベキスタン航空がタシュケントまでスケジュール上では週2便あるが、週1便のこともあったり、「コロナ」以降は就航も不可能になることも考えられる。

韓国・仁川発のタシュケント行き直行便。ウズベキスタン航空、コリアンエアー、アシアナ航空(一部共同運航)がスケジュール上で週6便運航している。

タシュケントからサマルカンド行きは、ウズベキスタン航空の便があるが、便数が少なく当日にサマルカンド行きの便に乗り継げないこともある。

空港

サマルカンド国際空港 Samarkand International Airport(IATAコード: SKD)
サマルカンド空港市内から北約6km、
市内までの移動は主にタクシーのみ。旧市街地までは約15分。
タクシーにメーターはなく、乗車前に交渉する必要がある。
身なりを見て高額の料金を吹っかけてくることもある。

鉄道

タシュケント・サマルカンド高速鉄道アフラシャブ号 Afrosiyob Trainが毎日運行されている。
タシュケントからサマルカンドまで全走行距離は344km、所要時間は約2時間10分。
午前と夕刻の2~3便  約5000円から12,000円まで列車やクラスによって異なる。
ダイヤは予告なく変更となる場合がある。
日本からの航空便からの同日乗り継ぎは航空便到着や空港の入国手続きなどの遅延が十分に考えられるので、リスクが多くお勧めできない。

サマルカンドの伝統的な市街及びモスク I Quartieri e le Moscheee Tradizionali

サマルカンドの伝統的モスクフォト

内部の庭、狭い道のある伝統的な市街(マハリャ)はサマルカンドの古代からの雰囲気を保っている。各市街にはモスクがある。民族の建築によるこれらの小さな一階建ての建物は、サイズとしては過去の偉大なカテドラルのモスクからはほど遠い。
基本的にそれらは19世紀の終わりから20世紀の初めごろ、サマルカンドのルネサンスの際に造られた。
コク・モスク、ポシャ・ソル・ムラドモスク、ホジャ・ニスバトドラ、そしてルハバドの夏のモスクなど、町の中心にあるモスクが最も有名である。
サマルカンドのモスクの建築技術は独特である。その基礎はムフラブが付いている冬のモスク、ハナカである。ハナカの隣に木のコラムと多彩に塗られた天井のある開いたベランダの形の夏のモスクがある。建築群には、通常小さなプール、そして低いミナレットが含まれている。

サマルカンドのキリスト教の寺院 I Templi Christiani

サマルカンドのキリスト教の<p>寺院フォト
キリスト教徒のコミュニティは、6世紀から13世紀にサマルカンドに存在していた。今日の寺院は20世紀初頭に、都市がロシア帝国の一部になった後建てられた。聖処女教会は1902年に建てられた。カテドラル教会は1911年に造られ、1992年に再建された。
アルメニア教会は1903年に造られた。ヨハネの名にちなんで名付けられたカトリック教の教区は1916年に造られた。 1920-30年代、サマルカンドではキリスト教の寺院がソビエトの権限で閉鎖された。ウズベキスタン共和国の独立宣言の後、寺院はキリスト教のコミュニティに戻り、活動が再開されている。

サマルカンドの見どころ

レギスタン広場 Reghistan

レギスタン広場フォト

サマルカンドの象徴的な広場。中心広場,3つのメドレセ建つ
ウルグベク・メドレセ
シェルドル・メドレセ
入り口には幾何学模様の青タイルの中に人や動物の顔が埋め込まれており、偶像崇拝を禁ずるイスラムでは珍しい存在。
ティラカリ・メドレセ
1660年建設。 金色の天井は圧巻。

14世紀にモンゴルによる迫害のため、アフラシャブの生活が麻痺し、サマルカンドは南の方に転地した。その中心となったのは、カテドラルのモスクがあるレギスタン広場だった。6つのメイン・ストリートは放射状にのび、そこに一点が集中した。
アムール・チムールの時代にレギスタンは技術、貿易の中心としての意味を持つようになった。道が交差しているところにツリパク・フルシヤンというドームのアーケードが造られた。
ウルグベクの時代には、レギスタンは軍事パレードおよび法令の宣言のために使用された。広場には新しい建築物も建てられた。
最初の建物は荘重なウルグベクのメドレセで、メドレセの反対側には巨大なハナカが建てられた。広場の南部分では古いカテドラルのモスクがあったところに新しいジュマモスク(金曜モスク)、北部にーミルソイ・キャラバンーサライが造られた。
16世紀、レギスタンにある建物は次第に落ちぶれていく。その後の建設はサマルカンドのアラングシ。ベイという統治者の時代に続いた。17世紀の始めごろ、彼は前のハナカの代わりにシェル・ドル メドレセを建てた。 17世紀の半ばごろには、彼は破壊されたミルソイ キャラバン・サライの代りにテリヤ彼は破壊されたミルソイ・カリメドレセを造った。

ウルグベクのメドレセ La Madrassa di Ulugbek

ウルグベクのメドレセフォト

サマルカンド、ブハラ、そしてギジュドワンの3つのイスラム教大学とメドレセの建設はウルグベクの名前を連想させる。それらの中で最も大きいものはサマルカンドのレギスタン広場のメドレセである。天文台が建てられる前には、ここに天文プラットホームがあった。表玄関は象徴的に空の星を表す巨大なモザイクパネルが飾られている。表玄関の両コーナーには教室が、反対側にはモスクがあった。このイスラム教の大学の最も有名な卒業生はホジャアフラルと詩人ジャミである。20世紀までに、メドレセはかなり破壊され、困難な修復が行われた。2つのミナレットをまっすぐにし、ドームアーチは再度建て直され、入口の上のアーチも変えられた。

グル・エミル廟 Gur Emir

グリ・アミール廟フォト

ティムール一族が眠る。支配者の墓の意味。 夜間のライトアップが絶景。
有名なチムール朝の廟グル・エミルは、アムール・チムールが愛していた孫のムハマドサルタンのための廟として最初に建てられた。彼はアムール・チムールの長男の息子、ジャハンギルとウズベク・ハンの孫娘の息子であり、公式の後継者であった14世紀の終わりごろ、ムハマドサルタンは、ルハバドの廟の近くにメドレセとハナカがあるサマルカンドの精神的中心を造るように命令された。ムハマドサルタンは1403年に亡くなった。アムール・チムールはそこに廟を造り、孫を埋葬した。
墓はクルーエミルと名付けられ、荘大な廟で覆われた。死後(1405年)、アムール・チムールはムハマドサルタンのクリプトの大理石の石棺に埋葬された。

15世紀半ば、クル・エミル廟はチムール朝の家族廟として、チムールの息子、シャフルフと彼の孫ミルソ・ウルグベクによって再建された。
アムール・チムールの教師であるセイド・ベレケの遺体は、廟の下のクリプトで埋められた。アムール・チムールの墓は「セイドのフィート」にある。上部ホールの彼の墓石は貴重な黒い軟玉で造られた。 1740年にイランのジャブ・ナディルはイランに持って行ったが、それを恥じ元に戻した。ムハマドサルタンの墓はアムール・チムールの東側にある。息子ミランシヤフ(1407年没)とシヤフルフ(1447年没)はアムール・チムールの墓の西側に埋められた。その後、ミルソ・ウルグベク(1449年没)は「チムールのフィート」に埋められた。

ビビ・ハニム・モスク Il Mausoleo di Bibi-Khanim

ビビハニムモスクフォト

中央アジア最大のモスク
18世紀の半ばごろまで、アムール・チムールのジュマモスクの反対側に大きいメドレセが存在していた。
そのメドレセはサライ・ムルクハニム(ビビ・ハニム)の資金で建てられた。最初、メドレセの表玄関は非常に大きく、その大きさと美しさではモスクの表玄関と競っていた。
それはアムール・チムールの憤りを誘い、それを再建するように彼は命令した。
入口の両側には直径の6メートルのミナレットがあった。メドレセは、イランのノディルシヤフの軍隊がサマルカンドを占領したときに破壊された。メドレセの入口の中央軸線にサライ・ムルク・ハニムの一族の争議の場であるビビ・ハニムの廟がある。それは円柱のドラムが付いた高い8面体の建物である。廟の中には3人の女性が埋葬されている石棺のあるクリプトがある。内部はモザイクのパネルおよび絵画で飾られている。




シャヒジンダ廟群 Shakhi-Zinda

シャヒジンダ廟群フォト

サマルカンドの聖地
シヤヒジンダ廟群はアフラシャブの丘の南麓にある1つのアンサンブルになったいくつかの廟、そして葬式のモスクである。霊廟の基礎はムハマド預言者のいとこである、クサム・イブン・アバスの廟である。彼はメッカのハキム(市長)であり、マベラナフルの征服にも参加した。彼のグループがお祈り最中に攻撃されたとき、彼はサマルカンドの壁の近<で死んだと言われる。1
つの説によると、クサム・イブン・アバスは傷つき、地面の開たとき、仮はサマルカンドの壁の近くで死んだと言われる。1つの説によると、クサム・イブン・アバスは傷つき、地面の開いたひび割れに消えたという。別の説では、彼の頭部が切られたが、彼はそれを拾い、井戸に消えたとされている。
11-12世紀のカラハニド朝のころ、シヤヒジンダは遺跡に11-12世紀のカラハニド朝のころ、シヤヒジンダは遺跡になった。そこにクサム・イブン・アバスの墓の上の廟が造られた。記念のモスクは廟の近<に建設された。アーチに刻まれた銘刻文字は、ここのドームが1334-1335年に再建され、彫り上げ細工のテラコッタが飾られたことを伝えている。
クサム・イブン・アバスの壮麗な階段のある陶磁器の墓石は、14世紀80年代のアムール・チムールの時代に造られた。それはマジョリカ焼きのタイルで飾られた5段ピラミッドのように見える。タイルはコーランからのテキストのアラビア文字と特殊な植物装飾で飾られた。



14世紀、シャヒジンダはサマルカンドの主要な神聖な場所として宣言された。14世紀の70年代にシャヒジンダの北側に無名の貴族の女性の廟(1361年)とホシャ・アフマドの廟が造られた。アムール・チムールの時代にホレズム人の職人の援助で、クサム・イブン・アバスの廟が多色刷りのマジョリカで飾られた。14世紀の70-80年代、アムール・フセインとアムール・ザデの廟、そしてアムール・チムールの姉妹クツルグ・ツルカン・アガとシリン。ベク・アガの2つの墓がアフラシャブの古代壁の近くに建設された。

14世紀の80-90年代の建築物では、アムール・ブルンデウクの廟、そして2つの無題の廟と八面体の廟しか残存していない。アムール・チムールの最も若い妻トマン・アカの命令で、15世紀の初めにアンサンブルのトップレベルの女性の廟と記念のモスクが建てられた。ウルグベクの時代には、シャヒジンダの建設が続いた。労働者は急斜面の階段を組み立て、階段の西側の女性の二つのドームの廟を建てた。その下で、表玄関とチョルタックが造られた。百年の間に作成されたアンサンブルは建築装飾に前例のない壮大で驚くべきものである。死を否定するよう、精神的な生命の永遠を宣言するシャヒジンダの優雅な美である。


ウルグベクの天文台跡 L'Osservario di Ulugbek

ウルグベクの天文台跡フォト

15世紀20年代、サマルカンドの統治者ミルソ・ウルグベクは東で最も大きい天文台を造った。そこで行われた天文学的の研究の結果は、「ウルグベクのジドジュ」にまとめられた。天文台は破壊され、その位置は忘れられていた。その後、「ジドジュ」が17世紀にオックスフォードで出版された際、天文台はヨーロッパの科学者の知るところとなった。
20世紀の初めころ、天文台の位置は考古学者V.ワヤトキンによって調べられ、発掘された。そこで主要な装置一半径40,2mと長さの63mのアーチがついた角度計が見つけられた。現在、ウルグベクの博物館はこの天文台の所に位置している。そこに「ジドジュ」からのページや、考古学的な発掘の際の写真や、天文器械のコレクションが展示されている。




サマルカンド歴史博物館Il Museo della Storia di Samarcanda

博物館はモスクハゾレトーヒジルからシアブ川の橋までの道、アフラシャブの領域にある。この博物館は、都市の古代史の様々な時代の展示物-ナイフ、矢、硬貨、製陶術およびサマルカンドのイシヒド宮殿(7~8世紀)からの独特なフレスコ画を展示している。宮殿は第3の城塞壁の後ろ、中世都市の中心に1965年に掘られた。
イシヒド宮殿の天井は木のコラムによって支えられている。ホールの南壁は、イシヒド・ワフルマン(7世紀後半)への結婚行進像で装飾されている。行列の頭には白象に乗った花嫁であるチャンガニアン知事の娘がいる。彼女はラクダと馬に乗った友人、そして高官を従えている。北の壁には野獣と戦っている騎手と男女が乗っているボートが描かれている。東の壁は海で泳いでいる若者、鳥、動物が描かれている。イシヒドの王位の後ろの壁には、中国人、チヤガニアン、チヤチおよび東トルケスタンの大使との謁見が描かれている。宮殿は数回再建され、8世紀に破壊された。



ルハバドの廟 Il Mausoleo Rukhabad

ルハバドの廟フォト

中央アジアのブルハン・アドディン・サガルドジは、東トルケスタンの遊牧民をイスラム教に帰依させたことで有名である。彼はモンゴル王朝の時代に中国帝国で権限を有し、「北京のイスラム教の頭」と宣言した。
彼が中国で亡くなってから、彼の息子アブ・サイドは父の最後の意志を実行するために、サマルカンドに遺体を運んだ。アムール・チムールの命令でブルハン・アドディン・サガルドジの墓の上にルハバドという名前で知られるドームの廟が建てられた。ルハバドは「精神のあるところ」という意味である。その後、ブルハンの息子アフ・サイド、そして家族が有名な教主の近くに埋葬された。イスラム教の預言者マホメットの7つの毛がある銅箱が廟のドームの下にあるという伝説もある。







国立文化歴史博物館

ウズベキスタンの民族の歴史芸術文化サマルカンド博物館は、中央アジアで最も古く、また最も大きい博物館の1つである。
1896年に開館し、1978年以降レギスタン広場にある特別な建物の中にある。博物館は約200,000の展示物を保有している。そこでは考古学、古銭学、民俗学の多数のコレクションや、旧石器時代から20世紀初めごろまでの地域の歴史、そして文化に関する文書や史料が保存されている。
独特な展示物としては、紀元前6世紀のサキアンの兵士の青銅色のヘルメットや、古代グレコ・バクトリア、パルフィアおよびクシャン硬貨のコレクションがある。
仏教文化については、クワの仏教寺院の彫刻の跡や、音楽家の肖像のあるアイルタムのフリーズの複製が展示されており、ゾロアスター文化については骨の貯蔵庫のコレクションが提示されている。
ワラクシャにあるブハラ統治者の宮殿とサマニド朝の宮殿からの絵画、そしてガンチのパネルは興味深い。11世紀の神聖なコーランの20のリストは、博物館の最も貴重な展示物とされる。ブハラのアミールの宝庫からの金、服、履物および馬衣、金糸で刺繍されたカフタンなど、博物館では装飾芸術が数多く展示されている。有名な教育者であるホジャ・ユスフ・ミルファヤゾフ(1842-1924年)の銅の地球儀は驚くべきものである。

シャブ・バザール Bazar

シャブ・バザールフォト

サマルカンドの現在の市場の区域は、8世紀から13世紀に手工業者が住んでいた郊外であった。13世紀から14世紀の終わりに、この領域におけるアフラシャブの生活は立ち消えてしまったが、その後の都市の復活の核となった。
レギスタンとアフラシャブの間にあった職場、鍛冶場、ブリキ細工場、倉庫およびキャラバン・サライは何世紀にもわたってサマルカンドの生活の中心であった。中国、インドおよびイランからの商人はそこに集まった。彼らは商品を売買し、交流した。モスクおよびビビ・ハニム廟の隣にあったサマルカンドの中央市場には古い建物が残されなかったが、いまだ大都市の古代市場の文化の精神を保っている。
古い技術では木彫り、カンテ彫りの職人そして宝石屋の陶工がその代表である。近くには多くのチャイハナ(お茶を飲むための部屋)が、サマルカンドの古<からもてなしの場としてある。そして、市場では粘土の炉で焼いたサマルカンド独特のパン「オビ・ノン」が売られている。それは日の丸のように見える円形タイプのパンである。このようなパンは中央アジアの地域毎に独特のものがあるが、サマルカンドのタイプは特別な装飾や独創性のために有名である。




ハゾレト・ヒジル・モスク La Moschea Khazret-Khizr

ハゾレトヒジルモスクフォト

アフラシャブの丘の南側にあるハゾレト・ヒジルのモスクは、そこの市場近<の交差した道路にあり、伝説のイスラム教の聖者ハゾレト・ヒジル(永遠の放浪者および商人のパトン)の名にちなんだモスクである。キャラバンを受け入れる都市サマルカンドにとって、ハゾレト・ヒジルは長い旅の成功、そして幸福をくれる聖者として非常に重要であった。モスクはイスラム教が入ってきた最初の世紀に、異教の寺院の場所に建てられた。アフラシャブの栄えた時代に、ここには二重に増強された南門があった。また、町に水を与える水路もあった。現代のモスクは古代モスクの基礎に基づいて、19世紀の半ばごろ建てられた。モスクの近くには1919年にできた小さいミナレットがある。





アフラシャブの丘 Afrasiab

アフラシャブの丘フォト

紀元前8-7世紀、シルダリア川とアムダリア川の間に「多くの都市」という意味を持つソグディアナ(ソグダ)という国が誕生した。アフラシャブの丘に置かれたマラカンダという中心都市は、古代サマルカンドと同一のものとされている。紀元前6世紀の半ばごろ、ソグディアナはアヘメニド朝(ペルシャ)帝国の一部分であって、紀元前4世紀まで存在し、アレキサンダー大王の軍隊がそれを破壊した。ソグディアナはシレフキード朝の時代に復活した。紀元前2世紀の前半までに、ソグディアナはグレコ・バクトリア帝国の一部分であった。その後、カンギュイ公国連合に入った。
紀元後、最初の千年間において、サマルカンドはソグディアナ住民の力によってソグダの最も強い公国の1つとして賞賛された。彼らは4~8世紀にシルクロードのキャラバン貿易を組織した。5~6世紀には、ソグダはエフタリート、そして6~7世紀にトルコ帝国の権限を承認した。紀元後630年代に、ソグダは中国の王朝に従うようになった。7世紀にはソグダ公国連合を結成し、サマルカンドのイシヒドという統治者が首領となった。



アブディ・ダルンとイシェラト・ハナ Abdi-Darum e Ishrat-Khana

アブディ・ダルンとイシェラト・ハナモスクフォト

アブディ・ダルン記念コンプレックスはサマルカンド南部の古代墓地にある。それはアラビアの法学者ホジャ・アフダル・マズアドヂナ(861年没)の墓の近<に建てられた。
テントのドームが付いている廟の基礎は、12世紀にさかのぼる。ウルグベクの時代にプールが付いている庭園と葬儀の部屋が廟に造られた。庭園の両側に、1908-1909年にできた建物がある。アブディ・ダルンの北方に両側に、1908-1909年にできた建物がある。
アブディ・ダルンの北方に15世紀の後半にさかのぼるチムール朝の廟、イシェラト・ハナ(「喜びの家」)がある。建物には、高い中央交差型のホールがある。ホールは外部のドームを支えるドラムで覆われている。そこの廟の巨大なクリプトに23人の女性と子供が埋葬されている。

アムール・チムールのジュマエルモスク La Djuma-Moschea di Tamerlano

アムール・チムールのジュマエルモスクフォト

ジュマモスクは中心都市、サマルカンドでアムール・チムールの命令に従って造られた。それには強い柱が並んでいる巨大な表玄関がある。モスクのコーナーには50mの高さがあるミナレットがあった。表の入り口には、1740年にイランのナティルシヤフ軍の侵略の間にサマルカンドから取り除かれた独特な青銅色のドアがあった。モスク(130 × 102m)の大きい中庭はたくさんの信者を収容した。中庭の軸にドームが付いている3つの建物があった。それはモスクの本堂と2つの小さい冬のモスクであった。
中庭の中心にはウルグベクの時代に作られた巨大なコーランのための大理石の教卓がある。モスクの建設はインドの遠征後の1399年に始まり、5年以内に完了した。モスクの名前はビビ・ハニムで、アムール・チムールの上の妻サライ・ムルク・ハ二ムとゆかりがある。18世紀の終わりにモスクは廃墟しか残っていなかったが、世界の最も壮大なモスクの1つだった。カテドラルのモスクは地震によってかなり破壊されたので、今見られるのは最初の建物の60%である。ビビ・ハニムモスクの復元をねらいとする重要な仕事は20世紀の終わりから進められている。本堂のドームと小さい側面のドームは元の形に戻され、入口の落とされた部品は再度組み立てられた。


サマルカンドの画廊 La Pinacoteca

サマルカンド文化芸術歴史博物館の絵画コレクションは、約4,000点から成っている。
それは過去と現在の絵画、デッサン、彫刻を含んでいる。画廊では、中央アジアの民族の歴史、生活を表現する有名なロシアの芸術家ウェレシャギンV,V、ゾッメルR,K、デゥヂンS,M、カラジンN,N、ニキチンG,N、ニコラエフA.(ウスト・ムミン)、ブレL.L.の作品が保管されている。
有名な現実主義的芸術家のウェレシャギンV.V.(1842-1904年)の作品では、「ステップの景色」、「原産のユダヤ人」、「デゥタルの歌手」、「ステップでの狩」、「学校の僧侶」、「ミルザ・ペクーフハラのエミルの公使」、「サマルカンドのエミルの宮殿」の7つがある。
デゥヂン(1863-1929年)の作品である「ダーウィーシュ」は、20世紀はじめごろのイスラム教の禁欲主義者の民族的肖像画である。
ニコラエフ(ウスト・ムミン、1897-1957年)の作品、「ウズラを持つ男の子」は東、イタリアのルネサンス、そして古いロシアの絵画の伝統が混合した作品である。
ブレ(1897-1943年)の約400の作品で、私達はブハラの住宅街、建築記念物およびサマルカンドの民俗学的なスケッチを見ることができる。20世紀ウズベキスタンの一流絵画の代表は、ベンコフP,P、コワレフスカヤN,G、アフメドフ、ジャロロフ、イサエフ、カロノフA,D、およびチャリェフである。















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